聞き書き「一歩も退かんど」(16) 二階堂副総裁の助言 志布志事件冤罪被害者 川畑幸夫さん

西日本新聞 オピニオン面 鶴丸 哲雄

 1984年の夏。酒店を営む友人の計らいで、私は自民党副総裁だった二階堂進さんと、鹿児島県肝付町の自宅で昼食をご一緒することになりました。

 当時の衆議院は中選挙区制。私が住む旧鹿児島3区では、田中派の大番頭の二階堂さんと「ミスター税調」の山中貞則さんが毎回、自民同士で激しいトップ争いを繰り広げていました。私の父栄三は山中さん支持ですが、そんなこと口が裂けても言えません。

 お宅は江戸時代に建った国指定重要文化財でした。二階堂さんは眼光こそ鋭いけど優しい方で、ざっくばらんの鹿児島弁。店を新築したのに売り上げが頭打ちになったことを相談すると、こう諭されました。

 「川畑君な、お菓子屋か。人が作らんような菓子を作らんといかんど。そうすればお客さんが来っとよ。そのためには、もっともっと勉強せんないかんど」

 ビロー堂でしか買えない菓子を-。私は翌日から看板菓子の開発に没頭しました。目指したのは「和」と「洋」の結合。メレンゲの生地を二つ丸く焼き、間に餅とつぶあんを挟む菓子を思いつきました。ただ、餅作りが難航しました。保存のために冷蔵しても固くならない餅が必要なのですが、どうしても作れないのです。熊本のある銘菓の成分分析を、専門の会社に依頼する奥の手まで使いました。それでも適当な材料は突き止められません。

 開発が暗礁に乗り上げそうになったある日、菓子作りで余った卵の白身に目が止まりました。試しにこれを餅に練り込んでみたら、冷やしてもほとんど固くなりません。「できた」と小躍りしました。灯台下暗しとはこのことでした。

 名称は、太鼓に似た外観から、志布志の郷土芸能にちなみ「千軒太鼓」と名付けました。江戸時代に貿易港として栄えた志布志は「千軒の町」と呼ばれた歴史があるのです。

 上品な淡い紫色の包装で売り出した「千軒太鼓」はまさに大当たり。所用で外出しようとすると、従業員から「社長、行くなら千軒太鼓を焼いてから行ってください」と文句を言われるほど。毎晩、1人で何百枚も生地を焼いておかないと、注文に生産が追いつかない状態になりました。

 貧しい農家の長男のこの私が、お年寄りから子どもまで愛される菓子を生み出せました。二階堂さんは亡くなりましたが、創意工夫の大切さを教えていただき、今も感謝に堪えません。 (聞き手 鶴丸哲雄)

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