われら前衛の徒 大分新世紀群の軌跡(2) モダンボーイ 文化とスポーツ 道楽者の夢

西日本新聞 文化面 藤原 賢吾

 大正末期の大分に、颯爽(さっそう)とモダンボーイが現れ、神戸仕込みのハイカラな新風を吹き込んだ。私財をなげうち「道楽者」と呼ばれるほど、文化、スポーツ振興に力を注いだ木村純一郎。大分市の伝説的な美術サークル「新世紀群」は、この男が創業し、当時、大分唯一の画材店だった「キムラヤ」の存在抜きには語れない。

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 「おやじが絵の具を売っているところを見たことがない。遊び人ですよ。大分には何もなかったから、神戸のまねごとのような施設を自ら作ったんです。そして人をおだてていろんなことをしていた」。次男の譲(91)=大分県別府市=はこう振り返る。

 純一郎は1900年に長崎市で生まれた。逓信省の技師だった父親は転勤が多く、幼少期を神戸など全国各地で過ごした。長男成敏の回想記(文化と愛の軌跡 キムラヤ創業70周年)によると、名古屋の小学校時代にテニスと野球をしていて、転校先の愛媛では周囲に教えていたという。

 小学校卒業後は、さまざまな国の文化があふれる国際性に惹(ひ)かれ、神戸の商業学校に進学。ところが14歳のころ父と兄が相次いで亡くなり中退を余儀なくされ、書籍問屋で出版も手掛けていた宝文館の神戸支店に奉公へ出た。ここで純一郎はさまざまなスポーツに親しみ、音楽会にも通った。本を読み美術に目覚めたのもこのころだった。譲は言う。

 「本の営業のために旧外国人居留地に出入りしていた。そこでラグビーやサッカーを覚え、先進的な文化にも触れたんです」

 23年に小倉支店に赴任すると、実家が営む大分市の書店から買い付けに来た女性と出会う。妻となるハズで、翌年結婚する。

 純一郎はさまざまなスポーツに取り組む。とりわけテニスの腕は一級だった。結婚前、小倉にテニスコートを造ろうと、資金集めに神戸のマンドリンクラブを招いたコンサートを開いた。しかしこれが不入りで大失敗。しばらく借金に苦しむことになる。後にハズは「借金が持参金となりました」(新婦人しんぶん)と回想している。

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 純一郎は結婚を機に宝文館を辞し、ハズの実家を手伝った後、自ら事業を立ち上げる。夢に見た画材店と運動具店の経営だった。二つを併設した間口2間ほどのキムラヤは大正15(1926)年、現在の大分駅前の目抜き通りに開業した。

 夢が叶(かな)い、さあ、敏腕経営者の道へ、とはならず、家業はハズに任せきりで、純一郎はあちこちを飛び回った。狙いは、大分に文化とスポーツを普及させることだった。

 開業からほどなく、店の一角に大分初の純喫茶も開く。純一郎のこだわりは半端じゃない。本物のコーヒーを出すため、ハズを大阪にまで修業に行かせた。蓄音機を置き膨大なクラシックレコードを集め、大分に3台しかなかったラジオも設置した。アムステルダム五輪(28年)や大学野球の早慶戦を聞こうと、店には人だかりができた。

 召集されたある青年は、中国出征を前にキムラヤを訪れた。もう二度と戻れないかもしれないと、ベートーベンの「運命」にじっと耳を傾けた。

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 店にアトリエを構えたのも創業当初。美術展が今ほど一般的でなかった時代にロダンの複製作品展や古賀春江展、猪熊弦一郎展、大分初の女性画家の展覧会などを開いた。アトリエには数多くの画家が集まり、いつも熱気に包まれていた。

 スポーツ界での功績を挙げればきりがない。テニス、ラグビー、サッカー、陸上、バスケットなどさまざまな組織を立ち上げ、本部をキムラヤに置いた。五輪金メダリストの南部忠平や日本人女性初の五輪メダリスト人見絹枝などを招き、高校生らの競技力向上も後押しした。

 戦前の大分のほとんどのスポーツ大会はキムラヤ主催だったという。コーチの旅費、果てはテニスチームの遠征費まで負担した。経営は火の車、倒産危機も一度ではなかった。

 純喫茶はスポーツ関係者や芸術家、新聞記者などでにぎわい、やがて「キムラヤ文化」と呼ばれる。

 <自分の好きなスポーツ、美術、音楽をなんとか普及したいと考え、それこそいまにして考えてみると、よくもあんな無茶(むちゃ)なことがやれたものだと我(われ)ながらあきれ返ることもしばしばです>(燃える半世紀)

 創業50周年の記念誌でこう振り返り、純一郎は1980年に帰らぬ人となった。純一郎だけでは経済的な破綻は免れなかっただろう。モダンボーイの道楽は、しっかり者のハズがいたからこそ成り立ったのだ。 =敬称略

 (藤原賢吾)

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