平野啓一郎 「本心」 連載第62回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

「私だって、然(しか)るべき時が来たら、安楽死しますよ。そういう共感があるから、携われる仕事でもあるな。その時にはね、当然、子供に財産を遺(のこ)すことを考えますよ。よく考えてごらん、一度、まっさらな気持ちで。そのお金でね、うちの娘が、少しでも楽に暮らしていけることを想像したら、それは親としては幸福なんだよ。自分の介護費に使われるより、よほどね。」

「先生は、裕福だから、心から『もう十分』と言えるんですよ。母は全然、違うじゃないですか。」

「医者も、もう裕福じゃないぞ。」
 と富田は、少し身を乗り出して、芝居じみた苦笑をした。

「親が子を思う気持ちは、一緒。――あなたも辛(つら)いだろうけどね、お母さんの気持ちになってよく考えてみたらどう? あなたという息子のことをとても愛している。そうだな。けれど、子供の将来を危ぶんでる。自分は、『もう十分生きた』と感じている。――ねえ? お母さんは、立派だな。私はね、あなたがその考えを、深く感謝しながら受け止めて、その代わりに、お母さんの最期を、しっかり手を握って、ベッドの側(そば)で看取(みと)ってあげた方が、どれほどお母さんにとっても幸せだったかと思うよ。――いや、待って。“死の一瞬前”っていうのは、人生で一度だけの、絶対に取り返しのつかない時間だ。その時に感じ、思うことが、この世界で人間として出来る最後のことだな。それをどうしたいかを決める権利は、絶対に個人にありますよ。私は、そう思う。もう一度、言っておきますが、お母さんに安楽死を勧めたことは決してない。いいね? けれども、私がこんな、しなくてもいい安楽死の認可なんて仕事を引き受けているのは、その私の思想のためだ。それで理解できるかな?」

 僕は、反論しようとしていたはずだったが、急に擡(もた)げていた首から力が抜けてしまった。母が“死の一瞬前”に、僕と一緒の時の自分でいられなかったのは、事実だった。そしてそれを、母の内側から追体験する想像は、僕を打ちのめした。

 それでも最後に、僕はこれだけは言うことが出来た。

「その考えが理解できないわけではないです。――わかりますけど、それにしたって、母はまだ七十歳だったんですよ? 早すぎるじゃないですか。……」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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