首里城周辺「見るも哀れな灰色の瓦礫」  昭和21年夏、沖縄に密航したある役人が見た光景

西日本新聞 阪口 彩子

 太平洋戦争で沖縄から出兵後に九州へ復員し、戦後は沖縄県福岡事務所職員として働いた瑞慶村智啓(ずけむら・ちけい)さん=沖縄県与那原町出身=は、福岡から沖縄へ密航し、疎開者の早期帰還の交渉を終えた後に古里へ向かった。瑞慶村さんの手記には、戦禍で変わり果てた首里の町並みなど、道中で目の当たりにした沖縄の姿が克明に記されていた。

 1946年8月2日、沖縄民政府に提供してもらったジープ型の車で石川(現うるま市)から故郷の与那原町に向けて南下した。「どこのあたりを通過しているのか全く見当もつかないほど、いたる所すさまじく破壊されている。想像もつかない荒廃した現状に息のつまる思いがする」と記した。

 車は激戦地となった首里(現那覇市)を通った。首里城地下に日本軍第32軍の司令部壕(ごう)が置かれていたため、米軍から集中砲火を浴びた。「首里の変貌は予想以上である。首里城を中心に長い歴史をとどめてきた古都首里の町は、見るも無残な姿に変わり果てている。室町時代初期に造営されたといわれる国宝唐破風造りの荘厳な首里城正殿も消え失(う)せ、さらにいろいろの口碑を秘めた数多くの城門も、今はただ礎石のみをとどめている」。首里城近くの沖縄師範学校で5年間を過ごし、見慣れた町並みの変わりように衝撃を受けた。「僅(わず)か高度百メートルほどの台地に築かれた夢多く、詩情豊かな古い城下町の樹木と建造物のほとんどが焼き尽くされ、見るも哀れな灰色の瓦礫(がれき)となり果てている」と首里城周辺の情景を記し、最後に「あまりにもすさまじいまでに荒廃した変わりように声すらもでない」と書いた。

 8月5日、与那原町に入った。運玉森や知念へ連なる山並み、中城湾などを横目にし「想像もつかないほどの多数の艦砲弾を撃ち込まれたのだろう。いずれの山々も緑を失い、赤茶けた山肌をむき出しにして痛ましい姿に変わっている」。集落にたどり着くも、石垣や立木が姿を消し、生まれ育った竹ぶき家は跡形もなかった。「懐かしいはずのわが町へ帰ってきたというのに、あまりにも変わり果てた姿を見せつけられて何の感動も湧かない。ただただ唖然(あぜん)たるのみ」

 両親はテント小屋にいた。片隅のミカン箱の中に位牌(いはい)と見立てた名前入りの木切れと写真が並んでいた。那覇尋常高等小の教員だった兄の消息は不明で、次男の瑞慶村さんも海軍の巡洋艦でレイテ沖へ。両親は2人が死んだものと半ば諦めていた。その次男が生還したのだ。

 「握りしめた父母の両手から、言いしれぬ慈愛のぬくもりが体中にしみわたってくる。『ただいま帰りました』の言葉すら出せずに、涙はとめどなく人頬を流れ、全身のわななきが止まらない」

 瑞慶村さんの帰郷を聞きつけ、近所の人が集まってきた。消息が分かる人について知る限りのことを伝えた。復員後、博多で元気に働いている息子の消息を知った老母が、急に声を張り上げ、うれしさに踊り始めたという。「今回の目的の一つである本土在住者と沖縄の人々との消息を知る上でかけ橋になれたこと、この上もない喜びである」

 帰福が近づく8月6日、石川に戻った。翌日、記録や荷物の整理をしていると、大きな袋が一つ届いた。中には本土在住者への私信の封書が500通以上入っていた。当時は占領下で交通や通信も途絶えており、本土へ戻る瑞慶村さんに託したのだ。「帰福後、これら総(す)べての封書が宛名の主に届けられるかどうか。心細いことではあるが、一通も残すことなく届くことを祈ってやまないし、また届けなければならないと心がはずむ」

 12日に福岡に到着すると、早速預かった封書を各県の沖縄県事務所へ送り、機関誌を通じて周知を図った。「多くの御礼の便りが寄せられたことから推察して、ほとんどが宛名の主に渡ったものと信じている」と記した。(阪口彩子)

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