われら前衛の徒 大分新世紀群の軌跡(3) 文化の守り人 努力と胆力の女性 特高を一喝

西日本新聞 文化面 藤原 賢吾

 木村ハズは強かった。大分に植えられた文化の種を芽吹かせ守り育んだのは、彼女だった。美術サークル「新世紀群」が結成された画材店「キムラヤ」を切り盛りし、次々と襲い掛かる店の危機を持ち前の努力と胆力で乗り越えていく。

 夫の純一郎は「商売をしているところを見たことがない」と言われるほどの道楽者。昭和初期の大分に大好きなスポーツと美術を普及させるために邁進(まいしん)し、店の金にも際限なく手を付けた。ハズは咎(とが)めることなく後押した。夫の夢の意義を信じていたのだろう。

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 ハズは1900年に現在の大分県別府市で生まれた。幼少期に大分市の本家が倒産し、ハズの父が再建を託され大分へ転居。多額の借金が残ったため、暮らしは厳しかったという。

 7歳のころ、ハズの人格形成を決定づける出来事があった。裕福な親類の家にお使いに行ったときのこと。その家の旦那は客といつまでも将棋を指し続け、ハズは暗い土間でずっと待たされたのだ。後に当時の心境をこう語っている。

 <金持とはなんと冷たいものか>(新婦人しんぶん)

 読書家で、兄が大分市で開業した書店を女学校時代から手伝った。20歳の時、大分を訪れた大正デモクラシーの立役者、吉野作造に手渡した古文書が論文になったと知り<一生の思い出になりました>(同)と喜んでいる。23年に発生した関東大震災の影響で本が届かなくなると、小倉の書籍問屋に買い付けに出向いた。この時に対応したのが純一郎である。

 結婚した2人は26年、大分市に画材店と運動具店を併設したキムラヤを開業した。当時、大分でテニスをするのは一部エリートに限られ、スポーツは普及していなかった。売り上げの6割を美術材料が占めた。

 創業ほどなく開設した純喫茶が軌道に乗り始めた31年、大きな試練に見舞われる。絵の具卸の出張員が鹿児島からチフス菌を持ち込み、家族や従業員約10人が感染した。死者が出て喫茶店は営業停止処分となり、莫大(ばくだい)な治療費によって家財道具は差し押さえられ、借金も背負った。ハズは3歳の次男を背負い金策に奔走。スポーツや文化振興に尽力した純一郎は慕われていたのだろう。<主人の人柄もあったでしょうが、助けてくださる人もありなんとかきりぬけることができました>(同)と回想している。

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 時代は戦時色を濃くしていく。38年制定の国家総動員法によって絵の具などの使用が制限されると、やがて戦争画家らのみへの配給制となった。貴重な絵の具を求めて切符を握りしめた画家が、鹿児島からキムラヤを訪れることもあった。

 ハズは戦争も理不尽な抑圧も憎んだ。

 文化人が集まりクラシックを流す純喫茶は特高警察や憲兵に睨(にら)まれた。ある日、特高が「敵性音楽を鳴らすな」と店に踏み込み、レコードをたたき割った。するとハズは、すぐさまベートーベンをかける。

 「まだやるか!」

 激高する特高に、けろりと言い返した。

 「ドイツの音楽よ」

 恥ずかしそうにこそこそと逃げる特高の姿を「面白かった」と振り返った。

 またある日には、「逃亡兵を匿(かくま)っている」と特高が家宅捜索に押し入ってきた。ハズは「これは絶対許してはならない」と階段に立ちふさがり、「土足で人の家に上がるとは何事ですか、逃亡兵はいません」と追い返した。

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 激動の時代を生き抜いたからだろう。ハズの話には「説得力がありました」と次男の譲(91)は語る。さらに、「若い絵描きをよく世話して、人が集まりやすい場をつくっていた」と文化への功績を強調した。

 ハズは晩年まで経営に関わり、88年に永眠。<ただただ一心に夫についてきたようなもの>(同)と話していたが、戦後、店を会社組織にするなど優れた商才で守り抜き、純一郎が推し進めた文化、スポーツの普及には欠くことのできない存在だった。

 そんな彼らに最大の危機がもたらされたのは45年7月16日。120機を超えるB29が、深夜の大分上空に迫っていた。 =敬称略

 (藤原賢吾)

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