平野啓一郎 「本心」 連載第65回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

 そういう割り切り方を、母がするだろうか? 普段からは想像がつかなかったが、もしそうだったとすれば、今度は、母の安楽死への願いが、よほど強かったのだと認めねばならなくなる。そのために、母は誤解されることさえ許容したのだから。

 それでも、僕に対しては、決してそうではなかったのだった。最後まで、「もう十分に生きた」という人生への満足を、納得させようとしていた。

 僕はそれを信じなかった。しかしもし、母の本心が、僕に金を遺(のこ)したいということだったとしたら? 僕は、安楽死を認め、哀(かな)しみを堪(こら)えながら母に感謝し、“死の一瞬前”に、母とともにあるべきではなかったか? もう随分と長い間、触れることさえなかったその体をしっかりと抱擁して。……
 
 三好彩花との面会は、彼女の仕事の関係で、深夜の二時の約束となっていた。

 帰宅後、僕は夕食を準備するのが面倒で、翌朝のために買っておいたレーズンパンを、麦茶を飲みながら囓(かじ)って済ませた。一息吐(つ)くと、食卓やキッチンのカウンターが、菓子やインスタント食品の空き袋で散らかっている様を眺めた。生活ゴミが打ち寄せられた、うら寂しい初秋の浜辺のようだった。母が本当に今、旅行から帰ってきたかのように蘇生して、この有様(ありさま)を見たなら、何と言うだろうか?

 それから入浴して一度仮眠し、三好との約束の三十分ほど前に目を覚ました。

 回していた洗濯機が終了の通知音を繰り返していた。

 このところ、僕は炎天下を一日平均で十二・五キロ歩いている。肉体的な疲労だけでなく、不快な依頼者が続いていることも、応(こた)えていた。着替えを準備し、気を使ってはいたが、届け物の先で、「臭い」と苦情を言われ、僕は初めて最低の評価をつけられた。たった、それだけのことで。――五十歳くらいの女性だったが、露骨に顰(しか)めたその顔と、ドアの隙間から洩(も)れてきたクーラーの冷気が、僕を傷つけた。

 評価が4・5点を下回ると、会社との特別歩合が見直され、3・0を切ると契約解除だった。僕はずっと4・9だったが、一気に4・6点まで下がってしまい、今の収入を維持できるかどうかの瀬戸際に立たされてしまった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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