われら前衛の徒 大分新世紀群の軌跡(4) 焼け跡に希望の灯 若者集う 自由のアトリエ

西日本新聞 文化面 藤原 賢吾

 大分の中心部にある上野の丘から燃えさかる街を見下ろし、不覚にも美しいと感じた。画材店「キムラヤ」の創業夫婦次男の木村譲(91)はその光景が忘れられない。

 1945年7月16日深夜から日付を越え、127機ものB29が大分を襲った。死者49人、負傷者122人、焼け出されたのは1万730人。全焼家屋2358戸の中にキムラヤもあった。譲は当時、旧制大分中(現大分上野丘高)の生徒。「自分の命より大切」と思っていたという学校の御真影と教育勅語を守る任を担い、防空壕(ごう)に避難させるため爆弾の雨をかいくぐり坂の上の中学を目指した。

 校舎のあった丘からは、市街地が一望できた。B29が去り防空壕を出ると、焼き尽くされる街をぼうぜんと見つめた。ビルから上がる火炎が闇夜に踊る。

 「遠くから見ると、きれいなんです」

 父純一郎も母ハズも無事だったが、小学生のいとこ3人が犠牲となり、キムラヤも焼け落ちていた。

 夫婦は不屈だった。終戦翌年に移転先で店を再開すると、純一郎はまず、スポーツの復興に取り組む。学校の焼け跡にテニスコートを造ろうと県議会に働きかけ予算を獲得。ただ、一部の費用しか出ず、自力での開設を決意する。

 額に汗して瓦礫(がれき)を片付け整地する彼の姿に心を打たれたのだろう。教師やその生徒、建設業者たちが加勢し、49年に4面のコートが完成。続いて2面が加わった。

 文化も愛した純一郎は、美術の再建にも力を尽くした。48年、店の裏に15坪ほどのアトリエを建設。自宅はバラックだったが、アトリエは美術雑誌に取り上げられるほど立派だった。

 これには秘話がある。当時は住宅が優先され、建材も配給制だった。個人のアトリエでは建築許可がおりない。そのため、「大分県美術協会研究所」とすることで特別に許されたのだ。

 <一面焼け野原の中で、それは光り輝いたものに思えた>(文芸誌「航跡」に元メンバーが寄せた手記)

 ただ、まだ戦争の傷痕は生々しく、家のない人も多かった。そんな中での建設には批判もあったという。

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 戦争は終わった。絵を描く場所ができた。

 当時の大分には、画家が集う場所はキムラヤしかなかった。まさに、生き抜いた画家の希望の灯だった。<何かあるとキムラヤ、何もなくてもキムラヤ>(燃える半世紀)。ある画家は後にこう語った。

 ハズは回想する。<戦争中大きな力でおさえつけられていた絵描きさんたちは、つぎつぎと作品を描き、個展をこのアトリエで開いた>(新婦人しんぶん)

 46年秋には百貨店のトキハで大分県美術協会展が開かれた。戦後初の県美展は芸術に飢えた人たちに大きな喜びを与え、記録的な来場者でにぎわった。

 ある年の前夜祭でのこと。キムラヤで着付けした会員たちが、トキハ2階のバルコニーで芝居を上演した。フンドシ一丁で騒ぐ者もいて通りまで人だかりとなり、路面電車が2時間ストップしたという。旺盛な彼らの活動拠点は、キムラヤだった。

 復興へ。大分の人たちは少しずつ、しかし確かに歩んでいった。

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 48年結成の「スバル」など、若者たちによって美術グループが大分でもつくられるようになった。アトリエで子どもや社会人に絵を教える人たちもいた。

 「戦後のキムラヤには若い人たちが集まるようになった」。譲は述懐する。お国のためでなく、自らのための生き方を選べる新しい時代。大分唯一の画材店は強力な磁場となり、美術を志す若者を引き寄せた。

 中学時代から通い、美術サークル「新世紀群」メンバーとなる赤瀬川原平はこう記す。

 <ガラス越しに中をのぞくと、白いキャンバスや石膏(せっこう)像がいくつか並び、油絵具のチューヴや筆や、あとは使い方もわからないような絵の材料がずらりと並んでいた。雪野と私には、そこが学校の校長室よりもっと厳かな場所に見えた>(雪野)

 絵を愛し、時代を切り開こうとする若者たちが、一つの渦になろうとしていた。 =敬称略

 (藤原賢吾)

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