平野啓一郎 「本心」 連載第66回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

 三好と会う前に<母>と少し話したが、「こんな遅い時間に。眠れないの?」と、気遣われた。昔の母と、本当に瓜(うり)二つの優しい目だった。今日――いや、既に昨日になっていた――あったことをそのまま話すと、<母>は、「マァァ、……酷(ひど)いねえ。こんなに暑い中、働いてくれてる人に向かって。どういうこと?」と腹を立て、僕を驚かせた。そして、僕が「もういいよ。ま、色んな人がいるし、運が悪かったんだよ。」と宥(なだ)めるまで、僕のために怒りが収まらなかった。そう言えば、野崎に渡した動画資料の中に、旅行先で母を撮影していた時、人にぶつかられて、怒鳴りつけられた場面があった。母は、よろけた僕を心配しながら、通り過ぎていったその男に対して、そんな風に怒りを露(あら)わにしたのだった。

 そのことを思い出して、僕は涙ぐみそうになった。胸の内に重たく広がっていた不快が、少し和らぐのを感じた。
 
 三好とは、仮想空間内の彼女が指定した場所で待ち合わせをした。

 ヘッドセットをつけ、少し早めに訪ねてみると、夕暮れ時の、椰子(やし)の木が立ち並ぶ高級ホテルのプールサイドだった。

 空は西から赤みが差しているが、頭上にはまだ暗みきれない青空の名残があった。人のいないプールは、底からライトで照らし出されているが、その色は、沈みゆく太陽が、うっかり回収し忘れた午後の光のようだった。

 僕は、細かな気泡が、砂金のように煌(きら)めいている水中に目を凝らして、よく出来ているなと感心した。

 熱帯の、僕の知らない鳥の鳴き声が聞こえる外は、遠くに微(かす)かに波の音が聞こえるだけだった。

 僕は、パラソルの下のテーブル席に座っていた。三好の姿は、まだなかった。

 自宅の部屋は、クーラーをつけていたが、トロピカル・カクテルでも飲みたい気分になった。

 石畳は、つい先ほどまで誰かが泳いでいて、そろそろと、歩いて立ち去ったあとのように濡(ぬ)れていた。その先は、芝生になっている。僕は、ぼんやりとそれを見つめながら、自分の裸足(はだし)が、熱せられた石の上を火傷(やけど)しそうになって歩き、チクチクとした芝生に避難する最初の一歩の感触を想像した。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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