サツマイモ情話 上別府 保慶

西日本新聞 オピニオン面 上別府 保慶

 これは大衆演劇の題材にぴったりなんだがと、かねがね思う実話がある。

 江戸時代の1711年冬、諸国を行脚する巡礼が薩摩の伊集院村にやってきた。名は下見(あさみ)吉十郎。40に近い男である。土兵衛という農民に一夜の宿を頼み込んだ。

 薩摩藩は国情が外に漏れるのを嫌い、よそ者の出入りには目を光らせた。監視には独特の方言が役立った。ことに幕府の隠密は潜入したきりで消息を絶つ例があり、帰らぬ人を「薩摩飛脚」と呼んだ。

 土兵衛が巡礼姿の吉十郎を泊めたのは、信心深さと人の善さからだったのだろう。土地は火山灰の上にあり、暮らしは貧しかった。夕飯には「甘藷(かんしょ)」が出た。今で言うサツマイモである。

 それがやせた土地でも育つのだと聞き、吉十郎は目を輝かせた。彼は瀬戸内海の大三島(おおみしま)(今の愛媛県今治市)に生まれたが、凶作続きで4人の子を失った。その霊を慰めるために出た旅だったが、故郷と同じ貧しい土地で、思わぬ光を見いだしたのだった。

 種芋を分けてほしいという吉十郎の懇願に、土兵衛は困惑した。薩摩藩は芋の持ち出しを固く禁じており、露見すれば命に関わる。だが、涙ながらの身の上話に、土兵衛はとうとうほだされた。

 吉十郎は持参の小さな仏像に穴を開けて種芋を隠し入れ出立した。故郷で栽培した芋は、周辺の島々にも広めた。おかげで享保の大飢饉(ききん)(1732年)の際も近隣に餓死者はなく、むしろ大三島では人口が増えた。食いぶちを減らす赤子の「間引き」がなくなったためといわれる。

 大三島の人々は、甘藷地蔵の像を作り、今も吉十郎の功をたたえる祭りが続く。だが種芋を渡した土兵衛の方は、口を閉ざしたせいか鹿児島で知る人はごく少ない。

 甘藷は、大航海時代のスペイン人がメキシコから太平洋を越えてフィリピンへ運び、清国の福建省に飢えを救う作物として上陸。さらに琉球を経て薩摩へ来たが、北上は止まっていた。解き放ったのは名もない農民の情けだった。

 幕府は享保の大飢饉のあまりの深刻さに、青木昆陽らに救荒作物を研究させた。そこで着目されたのが大三島の経験だった。以後、日本では戦後の食糧難も含めて無数の命をサツマイモがつないだ。

 私は本紙「ワイワイ川柳」欄を担当する。そこに「芋ごはん昔うんざり今好み」という投句があった。福岡市の中小路ミチ子さんの作品だ。なるほど、今は菓子のように甘くなった焼き芋の季節である。土兵衛が口に含めばどんな顔をしたか。 (特別編集委員)

PR

社説・コラム アクセスランキング

PR

注目のテーマ