平野啓一郎 「本心」 連載第67回 第五章 “死の一瞬前”
こんな場所に、一生に一度でも旅行に来られたら、どんなにいいだろうか。仮想空間は、なるほど、現実の幸福の欠落を補ってくれるが、却(かえ)ってその渇望を掻(か)き立てるところもある。僕があまり、好きになれない理由の一つだった。
それでも、母をせめて、ここに案内してやったなら、どんなに喜んだだろうか。
「まあ、きれいな場所ねえ。仮想空間も、馬鹿(ばか)にできないわね。」
と笑って振り返る姿が目に浮かんだ。
そうした楽しみを、若い僕こそが、もっと教えてやるべきではなかったか。……
しばらくすると、足許(あしもと)に一匹の猫が近づいてきた。日本でもよく見る白黒の雑種だったが、短い毛が艶(つや)やかで、尻尾はその自由の象徴のように伸びやかだった。
僕を見上げるので、頭を撫(な)でてやろうとした。すると、
「こんばんは。石川さんですか?」
と、その猫が喋(しゃべ)った。
僕は、驚いて返事をした後に、ようやく理解して、
「三好さんですか?」
と尋ねた。
「そうです。初めまして。――猫なんです、今日は。」
そう言って、彼女は傍らの椅子に跳び乗り、こちらを向いて座った。僕は、無料で使用できる平凡な男性のアバターをまとっていたので、何ともチグハグだった。母の安楽死のことを聞きたかったのだが、そういう深刻な話をする気を、最初からくじかれてしまった。
しかし、それを不快とも感じなかったのは、この場所が心地良く、彼女の分身の猫の姿が、自然と僕を微笑(ほほえ)ませるほど、愛らしかったからかもしれない。
「良い場所ですね、ここは。」
「スリランカのコロンボにある高級ホテルなんです。宣伝のために、ホテルがスゴくお金を掛けて作ってるから、リアルなんですよね。」
「へえ、……よく来るんですか?」
「うん、時々。でも、色んなとこ、ウロウロしてますよ。ここも、本当はすごい人で混み合ってるんです。今も、見えるようにしたら、二百人くらいいますよ。」