平野啓一郎 「本心」 連載第68回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

「ああ、そうなんですか。……静かだと思ってたんですが。」

 オリーブ色の眼の真ん中に丸く開いた黒い瞳で、猫はこちらを見ていた。椅子から垂れた尻尾が、忙(せわ)しなく左右に揺れている。

 僕は、うまく話を続けられなくて、
「その赤い首輪、……かわいいですね。」

 と、目についたそれを褒めた。首輪が顔の輪郭を強調して、擬人化に寄与していた。言ったあとで、妙な感じがしたが、彼女もおかしかったのか、声を出して笑った。
「ありがとう。」

 猫は左手の毛繕いを一頻(ひとしき)りしてから、
「お母さんのことでしょう?」
 と尋ねた。

「はい。ご連絡した通りなんですが、……実は生前、母は、安楽死したがってたんです。」
「うん、……そうね。」
「……三好さんにも打ち明けてたんですか?」
「打ち明けてたっていうか、……言ってた。わたしは、止めてたんだけど。」

 僕は、その一言に心を動かされた。

 この世界には、母の安楽死の願いを、知っていた人と、知らなかった人がいる。そして、知っていた人の中でも、止めた人と止めなかった人がいるのだった。

 三好は、僕が初めて会った、その“止めた人”だった。僕は、自分の顔に、温かい香油を注がれたように喜びが広がるのを感じたが、無料のお粗末なアバターにそれが反映されないのは残念だった。

 そんな恰好(かっこう)で、猫に向かって話す内容としては、いかにも不適当だったが、却(かえ)って心理的な負担が軽減されるところもあった。そして、奇妙な効果だが、動物であるからには、きっと相手は、真実しか語らないはずだという思い込みが芽生えた。
「母は、何と言ってました? 僕には、未(いま)だにその動機がわからないんです。」

 ゆっくりとした瞬(まばた)きで、プールの方を気にするように振り返った後、猫はまた、丸い目で僕を見つめた。
「全部言った方がいいんですか?」
「はい、全部。」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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