平野啓一郎 「本心」 連載第69回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

「旅館で、お母さんは、わたしと一緒に、布団の上げ下げをするような下働きをしてたんです。アルバイトの子たちを取りまとめながら。けど、会社が経営難で、人を減らすことになったのよね。……それで、重労働だから、会社はわたしを残そうとしたの。お母さんも、七十歳になるくらいの頃だったから。」

「でも、まだ七十歳でしょう? 今は誰だって働いてるし、重労働っていっても、パワードスーツを着けるんでしょう?」

「着けるけど、あんまり効果的じゃないのよね、ああいうのは。旅館の配膳とか、掃除とか、布団の上げ下げとかだと。それに、筋力だけ増強されても、体力は変わらないでしょう?」

「それは、まぁ、……」

「でも、とにかく、わたしは、会社に無理だって言ったのよ。実際、今でも死ぬほど大変だし。それに、お母さんは、わたしが働き始めた時から、すごく良くしてくれたから、申し訳なかったし。――けど、会社の方針は変わらなくて、最後は、給料下がってもいいならって話になったみたい。詳しくは訊(き)かなかったけど。それで、お母さんは、いいって言ったんだと思う。けど、それも、一時的なことでしょう? 結局はまた、辞めるかどうかって話になるに決まってるから。……その頃から、お母さん、やっぱり、将来を心配してた。」

「生活費のことですか?」

「生活費、……そうだけど、朔也(さくや)君のことでしょう、一番心配してたのは。」

 僕は、彼女が母から託されていた預かり物を、唐突に手渡されたかのように、その言葉の重さから、中身を想像した。

 「君」を伴った彼女の呼びかけには、意外と動じなかった。彼女がここで、性急な親しみを込めてそう呼んだとは感じられず、恐らく母といつも、そんな風に語り合っていたのだろう。それは、彼女の中には、母のなにがしかが分かち持たれていると、懐かしく感じさせるに十分だった。

 しかし、だからこそ、僕はまた抵抗を覚えた。彼女は、母の言葉を間違って「学習」してしまっているような感じがした。

「僕の何を心配してたんですか?」

「何をって、……全部を。」

「……。」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ