平野啓一郎 「本心」 連載第70回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

「お母さん、自分が働けなくなったあと、預金でどれくらい二人で生活していけるか、計算してたから。どんなことしてでも、働くつもりだったみたいだけど、もし仕事が見つからなかったらって心配してたし。……それに、働けない体になって、介護が必要になった時のことも。施設には、とても入れないけど、朔也(さくや)君、仕事があるから、自宅介護も出来ないでしょう?」

「出来ます。」

「……出来るの? どうやって?」

 猫の瞳は、丸く大きくなった。本当に可能かどうかを確かめている風ではなかった。恐らく、出来るはずのないことを出来ると言ってしまう僕を、母から聞いていた人物像と照合しているのだった。母の心配を、今更のように納得しながら。

「いずれにせよ、介護なんて、まだ先の話じゃないですか。」

 猫は、声もなく鳴く仕草(しぐさ)を見せると、首を振った。

「介護が必要になってから、安楽死をしたいって言っても、朔也君が絶対に認めないから、その前に実行したいって。」

「……本当にそんなこと、言ったんですか?」

「うん。言ってたよ。一度じゃなくて、何度か。」

「そんな考えって、おかしいでしょう? まだ十分若くて元気なんだから、僕は余計に反対するでしょう?」

「朔也君のためだって言えば、そうだろうけど、――お母さん自身の意思なら?」

「安楽死が、ですか?」

「そう。」

 アルミ製の椅子から垂れた猫の尻尾は、相変わらず、左右に揺れていた。

「わたし、……やっぱりお母さんは、本当に安楽死したかったんだと思う。自分の考えで。」

「どうして、そう思えるんですか?」

「聞いててそう感じたから。」

「――それだけのことですか?」

「こんな風に、猫とお人形の恰好(かっこう)で喋(しゃべ)っててもわからないけど、向かい合って話してたら、わかるでしょう? 表情とか仕草から。」

 僕は、そんな素朴な話を、彼女が本気で信じているのだろうかと疑った。しかし、次の瞬間には、更(さら)に素朴な僕自身の撞着(どうちゃく)に思い至らずにはいなかった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ