普賢岳噴火から29年 観光再生、模索の日々 雲仙温泉 旅館専務の石動さん

西日本新聞 長崎・佐世保版 真弓 一夫

 雲仙・普賢岳が1990年11月、198年ぶりに噴火してから17日で29年を迎えた。雲仙市の雲仙温泉の雲仙いわき旅館専務、石動義高さん(62)は、噴火初日に消防団員として火口まで登り、噴煙を写真に収めた。「まさか」と思いつつシャッターを切った噴火は長期化し、雲仙観光を直撃した。終息後は観光再生のきっかけを模索する日々が続く。

 あの日の朝、石動さんは紅葉シーズンで連日満員の団体宿泊客を見送り、「今日も忙しくなるだろうな」と思っていた。午前8時半ごろ、火災を知らせるサイレンが響いた。普賢岳の林野火災の第一報に消防団員だった石動さんらは、山火事用の消火装備を準備し、消防車2台で仁田峠の登山口の駐車場に向かった。

 途中、2筋の白い煙が真っすぐ立ち上っているのが見えた。現場に先行した団員から「火口から噴煙が出ている」と無線で報告があり、駐車場の売店で使い切りカメラを買って火口のある山頂に向かった。地獄跡と九十九島の二つの火口を展望できる高台から夢中で撮った。

 100メートルほど離れていてもゴーッという噴気音が聞こえた。地獄跡火口は「地面が裂けて噴煙と熱水混じりの土砂が噴き出していた」。撮影した写真は新聞にも掲載されたが、噴火後の混乱で紛失したという。

   ◇    ◇

 実家は創業約120年以上の老舗旅館。大学を卒業後、福岡市内のホテルで接客業を修業し、20代後半で雲仙に戻る。当時はバブル経済の後半で客足は好調。噴火前も紅葉見物で満員が続いていた。噴火当初は短期で終息するとの見方もあり、温泉街には「噴火が新しい名物になるのでは」という期待感すら漂っていた。

 しかし91年6月3日の大火砕流で43人が犠牲になる。「あれが雲仙の最大の分岐点だった」。かかってくる電話は全て予約の取り消し。宿泊客は噴火前の2割以下に落ち込んだ。避難生活を送る被災家族を長期間受け入れる宿泊施設支援策で一息つけた。「暮らしやすいように」と温泉を24時間開放し、自由に使える洗濯機も置いた。

 噴火は5年半続いた。96年6月の終息宣言後も客足は戻らなかった。稼ぎ頭の修学旅行客の激減は大きかった。日本温泉協会の温泉審査で全項目満点評価を得た泉質をアピールし、個人客向けに露天風呂つきの部屋を雲仙温泉街で初めて導入した。だが営業努力を重ね、手応えを感じるたびにリーマン・ショックや熊本地震に見舞われた。

 雲仙温泉の宿泊者は噴火の年に約90万人でピークを迎えたが、2018年には23万人に減少。このため雲仙市は本年度から3カ年で同温泉の新観光戦略の策定に乗り出したほか、外部資本によるホテルの経営再建も進み、活性化への機運が高まっている。

 石動さんは、1913(大正2)年に日本初のパブリックゴルフ場として開場した雲仙ゴルフ場の社長でもある。明治初期から外国人の避暑地として発展した雲仙温泉は、奈良時代の肥前国風土記にも登場し「歴史と伝統を誇る温泉とゴルフ場は本物。雲仙観光の原点に戻り、この魅力を生かしたい」と話す。(真弓一夫)

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