来日に寄せて ローマ法王 長崎への思い 西日本新聞社相談役 川崎 隆生

西日本新聞 オピニオン面

 フランシスコ教皇(法王)が23日来日する。同日夕、バンコクから東京に入り、翌早朝には1200キロ西の長崎に飛ぶ。12月に83歳になる教皇にとって過酷な日程だが、バチカン筋は「教皇が一番行きたいのは長崎。真っ先に訪問されるのはその気持ちの表れです」と言う。

 教皇はなぜ長崎にこれほど熱い思いを抱くのか。キリスト者として殉教者への追悼の心は、何より優先される。長崎にはその心に応えられる歴史があるからだろう。

 16世紀半ば、フランシスコ・ザビエルが日本に伝え、各地に広がったキリスト教は約40年後、戦国の世を統一した豊臣秀吉によって布教に「待った」がかかった。九州を中心とするキリシタン大名の結束と反抗を恐れたためで「バテレン(神父)追放令」を発布した。江戸時代に入ると徳川幕府は神父の追放にとどまらず、信仰も許さない禁教令を出した。明治初期までキリシタンへの拷問、処刑が続き、多くの殉教者を出した。キリスト教徒が最も多かった長崎は最大の殉教地となった。

 この歴史を背負った「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が昨年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された。迫害に遭いながら信仰と生活を守り徹(とお)した精神力が高く評価された。

 マーティン・スコセッシ監督がメガホンを握った映画「沈黙-サイレンス」(原作・遠藤周作)も長崎を舞台に信仰に命を懸ける意味を問う作品として世界的な評価を受けている。登場人物のモデル、ポルトガル人の神父フェレイラは深さ2メートルほどの穴に逆さづりされ、頭に上った血が耳やこめかみから滴る拷問「穴吊(つ)るし」に耐えられず棄教したことが長崎奉行所の記録に残っている。

 フェレイラ神父が拷問された同じ日、同じ場でつるされた中に「天正遣欧少年使節」の一人、中浦ジュリアンもいた。使節団は九州のキリシタン大名の名代として1582年に長崎を出港、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見(えっけん)した。帰国後、禁教令が出ると地下に潜伏、20年以上も九州各地を回り、迫害に苦しむキリシタンたちを信仰、生活の両面で支えた。長崎に連行された時は65歳。つるされて3日間耐えたが、4日目に絶命した。

 殉教から370年余りたった2008年11月24日、長崎市の県営球場で行われた日本初の列福式で中浦ジュリアンは聖人に次ぐ福者になった。同じ月、同じ日、同じ場所でフランシスコ教皇はミサを行う。

 県営球場に行く前、教皇は西坂の丘にある「日本二十六聖人記念館」を訪れる。ここでは京都から連れてこられた外国人宣教師6人と20人の日本人信徒が処刑されている。さらにその前に、教皇は核兵器に関するメッセージを発表するため爆心地公園に入るが、この一帯は原爆被爆地であると同時に江戸時代に4度もキリシタンが大量捕縛され拷問を受けた殉教の地でもある。

 バチカンが掲げた訪日のテーマは「すべてのいのちを守るため~PROTECT ALL LIFE」。被爆直後、弟の亡きがらを背負って火葬の順番を待つ少年の写真をカードにして配るほど長崎に強い関心を寄せる教皇が、いのちと平和についてどんな言葉で人々に語りかけるのか、世界が聞き耳を立てている。

 日本はカトリック教徒の人口比が0・5%にも満たないカトリック小国。そのなかで長崎県は人口の4%に当たる6万人の信者が暮らすカトリック大国だ。日本のカトリック界をリードする高見三明大司教、前田万葉枢機卿は長崎県の出身であり、イエズス会日本管区のデ・ルカ・レンゾ管区長(日本二十六聖人記念館元館長)は教皇と同じアルゼンチン出身で師弟関係にある。さらに聖人記念館のアントニオ・ガルシア前館長は「長崎には90歳の友人がいます」と教皇が敬愛する修道士だ。信仰の世界だけでなく、人のつながりでも長崎とフランシスコ教皇の絆は太くて長い。

 ザビエルは長崎県・平戸島を布教の拠点として日本初の常設教会堂を建築し、オルゴールやガラス製品、ワインなど献上品を保管した。それから約470年。「若いころ日本で宣教師になりたかった」と語ってきた教皇の訪問を機に長崎がバチカンと地縁、血縁で結ばれるもう一つの「聖地」と呼ばれても不思議ではない。

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