よど号 半世紀後の「謎の核心」 赤軍派「平壌へ行け」 どうして韓国に着陸 KCIA部長から「閣下の指示だ」

西日本新聞 国際面 池田 郷

 ●元韓国空軍管制官 蔡熙錫さん証言 事件後は苦難「犠牲者が出なかったのは誇り」

 1970年3月31日午前7時半すぎ、富士山上空付近を飛行中の羽田発福岡行きの日本航空351便(よど号)が、赤軍派の9人にハイジャックされた。男たちの要求は「(北朝鮮の)平壌へ行け」。板付空港(現福岡空港)に給油のため立ち寄った同機は、平壌へ飛んだはずだった。ところが-。同機はなぜか、韓国の金浦空港に降り立つ。日本初のハイジャック事件から約半世紀。韓国空軍の元管制官、蔡熙錫(チェヒソク)さん(78)=当時(28)=ら当事者が、最大の謎の核心を語った。 

 ■厳命

 「これは閣下の指示だ。理由のいかんを問わず、よど号を金浦に着陸させろ」。事件当日午後0時半ごろ、よど号ハイジャックの情報を受けて金浦空港の管制施設に詰めていた蔡さんに、1本の電話が入った。

 電話の声は、韓国中央情報部(KCIA、現国家情報院)のトップ、金桂元(キムゲウォン)部長だったと蔡さんは明かす。閣下とは当時の朴正熙(パクチョンヒ)大統領。KCIA部長が空軍管制官に直接の指示を下すだけでも異例。ましてや軍事政権下で絶対的な存在の大統領からという厳命に、蔡さんは身震いした。

 同時刻、板付空港。人質122人を乗せたよど号には、抜き身の日本刀のような物を構えた男たちが立てこもっていた。平壌行きを阻止したい福岡県警との神経戦。わざと給油を遅らせたり、自衛隊機が故障したと偽り滑走路上に駐機させたりして時間を稼いだ。

 午後1時すぎ、女性と子ども、高齢者ら23人が解放された。滑走路の戦闘機をどかして離陸を可能にすることが条件だった。午後2時前、よど号は包囲網を振り切るように離陸し、平壌を目指した。

 操縦かんを握ったのは石田真二機長=故人、当時(47)。副操縦士は江崎悌一さん(82)=福岡県太宰府市出身、当時(32)=だった。江崎さんは、金浦空港の蔡さんとの交信で、重要な役割を果たす。

 ■演技

 よど号は韓国と北朝鮮の軍事境界線付近を飛んでいた。「こちらはJAL351便」。同機の江崎さんからの無線を、蔡さんは傍受。間髪入れずに同機へ指示を出した。「交信周波数を134・1メガサイクルに切り替えよ」。瞬時のこの判断が、よど号の運命を大きく左右することになる。

 よど号から最初に届いた無線は、国際遭難通信用の周波数121・5メガサイクル。この周波数は北朝鮮側も傍受可能だが、金浦空港専用の134・1メガサイクルならば北朝鮮に傍受されない。

 ここから蔡さんは一世一代の「演技」をする。「こちらは平壌」。金浦空港から江崎さんらと134・1メガサイクルで交信していたのに、平壌の管制官のように振る舞ったのだ。「平壌に着陸せよ」と行き先も偽り、よど号を金浦空港に誘導する指示を送り続けた。

 うその目的地に誘導する行為は危険を伴う。しかも、よど号は航路や着陸地の詳細な情報を記した航空図も持たずに飛行していた。江崎さんによると、機内には板付空港で渡された中学生用の朝鮮半島の簡易地図しかなかったという。

 それでも蔡さんが「超法規的」な判断をしたのは、KCIAトップの指示があったからこそだ。金部長は蔡さんへの電話で「よど号を着陸させるためなら、ソウルを北朝鮮だと言って構わない」と命じたという。

 平壌の管制官を装った蔡さんの指示を、コックピットにいた江崎さんはどう感じていたのか。「ソウルから平壌に無線が切り替わったはずなのに管制官の声が酷似するなど、不自然な点が多かった。ソウルに誘導されていると感じたが、そばに武装した男がいる状況だったので、無線の指示に従うしかなかった」。江崎さんは取材にこう答えた。

 ■矜持

 蔡さんは、軍事境界線付近から平壌を目指していたよど号に、針路を少しずつ南へ向けるよう小刻みに指示を出した。金浦への急旋回を避けたのは、男たちに目的地の変更を悟らせないためだ。午後3時すぎ、同機は金浦空港の滑走路に滑り込む。「失敗したら命はないと思っていた」。蔡さんは胸をなで下ろした。

 赤軍派は韓国政府当局との丸3日の交渉を経て、4月3日に人質99人を解放。身代わりとして山村新治郎運輸政務次官=故人、当時(36)=が人質となり、よど号は平壌へ飛んだ。容疑者たちは北朝鮮にとどまり、山村政務次官と江崎さんら同機の乗員3人は5日、無事に帰国を果たした。

 蔡さんは大学を中退して空軍入り。英語が堪能で将来を嘱望されていた。よど号の誘導を任されたのも米連邦航空局(FAA)の航空管制官免許を持つ数少ない韓国人だったからだ。

 事件後、上司からよど号に関することは一切口をつぐめと命じられた。2年後には半ば強制的に軍を辞めさせられた。理由は今も分からない。以後10年ほど酒に溺れ、妻のわずかな稼ぎで暮らした。事件の約20年後、境遇を知った国連軍司令部の高官が助けてくれた。同司令部が管理する非武装地帯(DMZ)で土産物店を営めるよう手配してくれ、生活が軌道に乗った。

 よど号事件は、エリート軍人だった蔡さんの人生を狂わせた。容疑者たちや、非情な命令を下した権力者たちに恨みはないのか。「身の上に起こることは全て宿命。いくつもの幸運も重なり、犠牲者が一人も出なかったのが私の誇りだ」。柔らかにほほえむ瞳の奥に、元軍人の矜持(きょうじ)を見た。

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