平野啓一郎 「本心」 連載第73回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

 猫は、前足を伸ばして音もなく椅子から跳び降りた。そして、スッと顔を上げ、周囲を見渡し、プールサイドを駆けていったかと思うと、いつの間にか姿を消していた。

 僕は、そのあとしばらく、そこに残って、やはり依然として、さっきまで誰かが泳いでいたかのように、ゆったりと揺れ続けているプールの水を眺めた。

 時間が止められているらしく、落ちかけた太陽は、水平線の縁に留(とど)まったままだった。

 永遠というのが、仮想空間で、こんなに簡単に実現してしまうことが不思議だった。

 彼女は、仕事のない日に、いつもここで、独り何を想(おも)っているのだろうか?

 ずっとここにいて、時間を忘れられたら、老いの不安からも、死の恐怖からも解放されるのだろうか? それは、安らぎだろうか? それとも、生は何か、酷(ひど)く鈍化したものになるのだろうか?

 最後の言葉は、いかにも思わせぶりで、僕は鼻白みつつ動揺した。母が僕に、父について語ることはほとんどなかった。その一事からも、三好と母との関係の深さが窺(うかが)われた。

 父の存在と、母の安楽死の決断とが、何か関係しているのだろうか?
 
 ヘッドセットを外すと、味気ない、生活ゴミで荒廃したリヴィングに独りでいる、という現実に引き戻された。酷く狭く感じられた。天井の明かりは、僕の孤独を誤解の余地なく、隅々まで照らし出している。

 疲れた目の具合を確かめるようにして、僕は、窓辺のフィカスの鉢を見つめた。

 僕が死ねば、この木もまた、少し遅れて死ぬことになるだろう。何が起きたのかも気づかぬまま。

 <母>はどうなるのだろうか? ただ放置されるだけなのか、それとも、また追加料金を払って、オプションで自動消去の申し込みでもするのか。

 そして僕は、初めて、母より先に死ななくて良かったと思った。僕ではなく、母がこの部屋に、今一人で遺(のこ)されていたら、どんなに寂しかっただろうか、と。
 
      *
 
 九月に入ってすぐのその日、僕は、仕事が一件、急にキャンセルになり、夕方まで自宅で観葉植物の世話をして過ごした。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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