平野啓一郎 「本心」 連載第75回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

 母の肉声を通じて、遂(つい)に聴くことのなかった出来事は、他にも幾らでもあるはずだった。その一つに触れて、僕はうれしくなった。

「そんなこと、あったの?」

 と、笑顔で応じると、<母>の表情も一段と明るくなった。

 僕は、<母>と話をする時の声が大きくなっていた。<母>の困惑した表情を見たくないので、安楽死の話題には、努めて触れないようにしていた。<母>の方から、話を切り出すこともなかった。

 親しい人とのやりとりの結果、僕との会話も「深みが増す」という野崎の助言は、確かにその通りだった。考えてみれば、僕が生前、母と語り合ったことも、メディアで目にした情報というより、誰かとの間で生じた日々の出来事が大半だった。

 三好だけでなく、更(さら)に色んな人との学習機会を持たせれば、<母>の言葉も、もっと彩り豊かになるだろう。僕には語らず仕舞(じま)いだった思い出も、息を吹き返すに違いない。

 僕が学習させたのではないことを語り出すことで、<母>はますます、母に近づいてゆく感じがした。

 このVF(ヴァーチャル・フィギュア)に不具合でも生じれば、僕は二度目の母の喪失を経験するだろう。三好との会話による学習が進むと、もう以前のように、復元ポイントを作成して、何かあれば、そこまで<母>の性格を引き戻す、ということは考えなくなった。何か誤った事実を学習してしまったなら、飽(あ)くまで僕との会話を通じて、そうではないことを理解してもらうべきだった。

 

 しかし、今朝、<母>が語ったことは、母の中にずっと隠し持たれていたものを、誤って僕に手渡してしまったような動揺を齎(もたら)した。

 <母>が唐突に口にしたのは、僕の高校時代の話だった。

「三好さんは、朔也(さくや)がお友達のために高校を卒業できなかったことに、すごく共感してたわよ。」

「――そんなことまで、喋(しゃべ)ってたの?」

「そうよ。お母さん、ずっと胸に秘めてたけど、三好さんが聴いてくれて、どんなに心が楽になったか。」

「……ずっと?」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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