平野啓一郎 「本心」 連載第76回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

「だって、朔也(さくや)が今みたいな生活をしてるのは、大学に行けなかったからでしょう?」

 僕は、「お母さん、そんなことは言わなかったよ。」と注意しかけたが、寧(むし)ろ<母>に自由に語らせて、三好との間でどんな会話がなされたのかを知ろうとした。

「大学は、……そのあと自分で資格を取れば行けたけど、そうしなかったんだよ、僕は。それは、僕自身が決めたことだから。」

「そうだったわね。」

 <母>は、そう言って頷(うなず)くと、

 「三好さんは、思いやりのある、本当に良い人よ。」
 と言った。

 <母>が言う通り、母は本当に、生涯、僕の高校中退のことを気にしていたのだろうか?

 僕には、決してそう言わなかったが、三好が知っていて、改めて母とそのことを語り合っているならば、いずれにせよ、生前、彼女には打ち明けていたのだった。
 
 僕が高校を辞めたのは、二年生の夏休み明けのことだった。

 その年、僕の学校では、一つの問題が発生していた。同学年の一人の少女が、生活費を稼ぐために売春していたことが発覚し、退学処分になったのだった。

 この処置は、最初はヒソヒソ話の驚愕(きょうがく)を広げたに過ぎなかった。意外にも――当然だろうか?――彼女の友人たちは、後ずさりしながら、この話題から立ち去るべきかどうか、顔を見合わせている風だった。嫌悪感を示し、断罪する者もあれば、失笑する者もあり、恐らく、不安に怯(おび)えていた者もあったのだった。マッチング・アプリで、“支援者”を探すというのは、珍しい話ではなかったから。

 全身を火傷(やけど)したような沈黙が皆をギョッとさせながら、校内を闊歩(かっぽ)していた。

 僕は、一年生の時、彼女と同じクラスだった。

 二度だけ、言葉を交わしたことがある。一度目は、教室を出ようとした時に、彼女が廊下から入って来ようとして、「どうぞ。」と先を譲られた時。もう一度は、彼女が欠席した日の翌日に、

「石川君、昨日のノート、写させてもらってもいい?」
 と、頼まれた時だった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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