平野啓一郎 「本心」 連載第76回 第五章 “死の一瞬前”
「だって、朔也(さくや)が今みたいな生活をしてるのは、大学に行けなかったからでしょう?」
僕は、「お母さん、そんなことは言わなかったよ。」と注意しかけたが、寧(むし)ろ<母>に自由に語らせて、三好との間でどんな会話がなされたのかを知ろうとした。
「大学は、……そのあと自分で資格を取れば行けたけど、そうしなかったんだよ、僕は。それは、僕自身が決めたことだから。」
「そうだったわね。」
<母>は、そう言って頷(うなず)くと、
「三好さんは、思いやりのある、本当に良い人よ。」
と言った。
<母>が言う通り、母は本当に、生涯、僕の高校中退のことを気にしていたのだろうか?
僕には、決してそう言わなかったが、三好が知っていて、改めて母とそのことを語り合っているならば、いずれにせよ、生前、彼女には打ち明けていたのだった。
僕が高校を辞めたのは、二年生の夏休み明けのことだった。
その年、僕の学校では、一つの問題が発生していた。同学年の一人の少女が、生活費を稼ぐために売春していたことが発覚し、退学処分になったのだった。
この処置は、最初はヒソヒソ話の驚愕(きょうがく)を広げたに過ぎなかった。意外にも――当然だろうか?――彼女の友人たちは、後ずさりしながら、この話題から立ち去るべきかどうか、顔を見合わせている風だった。嫌悪感を示し、断罪する者もあれば、失笑する者もあり、恐らく、不安に怯(おび)えていた者もあったのだった。マッチング・アプリで、“支援者”を探すというのは、珍しい話ではなかったから。
全身を火傷(やけど)したような沈黙が皆をギョッとさせながら、校内を闊歩(かっぽ)していた。
僕は、一年生の時、彼女と同じクラスだった。
二度だけ、言葉を交わしたことがある。一度目は、教室を出ようとした時に、彼女が廊下から入って来ようとして、「どうぞ。」と先を譲られた時。もう一度は、彼女が欠席した日の翌日に、
「石川君、昨日のノート、写させてもらってもいい?」
と、頼まれた時だった。