岡部平太、故郷糸島に向かう 敗戦で心身ともに疲弊

西日本新聞 ふくおか都市圏版 加茂川 雅仁 田中 耕

平和台を創った男 岡部平太伝 第5部(1)

 神風特攻隊で長男平一を亡くした岡部平太は終戦前の1945(昭和20)年6月、妻ステと次女瑠璃子(るりこ)を連れて北京を離れた。厳しさを増す戦況から「北京にいては危険だ」と判断。船と列車を乗り継ぎ、故郷の糸島に向かった。スポーツで日中関係を改善しようとした夢は破れ、54歳で傷心の帰国となった。

 到着から3日後の6月19日夜。海岸から、博多方面が燃え上がるのを見た。米軍のB29爆撃機による焼夷(しょうい)弾攻撃だった。この「福岡大空襲」で商業地博多は壊滅し、岡部は、西部軍司令官から「民間切り込み隊」の隊長就任を要請される。米軍の上陸に備えるのだという。

 しかし、即座に断った。

 「日本の悲惨な運命を考え、神風特攻隊をやってのけたせがれの冥福を祈るばかりで、そんな気持ちにはなれなかった」

 8月に終戦を迎えると、岡部は農業を始めた。しかし、経験がないため施肥すらできずに断念、塩炊き(塩作り)に挑戦する。糸島では古くから、海水を釜で炊く製塩が行われていた。実家の五右衛門風呂を使うつもりだったが、燃料の薪が手に入らず、これも諦めてしまった。

 そんなある日、手紙が届いた。満州時代の友、馮庸(ひょうよう)からだった。満州事変が起きた時、関東軍から反日分子として拘禁された馮庸の亡命を手伝ったが、結局馮庸は中国国民党に合流した。そのことで岡部は関東軍に逮捕され、処刑の危機に直面したのだった。

 手紙には「生活に困っているならば、生活費や物資を送る」と書かれていた。馮庸はなぜ裏切ったのか…。「人間としての情を確認したかった」。悩み続けた末に、会いに行く決心を固める。終戦直後で中国への渡航は禁じられており、馮庸の正確な居場所も分からない。それでも岡部は密航を試みたが失敗に終わる。

 それからは当てもなく海で泳ぐ日々。将棋仲間の作家、菊池寛から贈られた書を板に彫って色を塗るのが、せめてもの慰めだった。

 ところが47(昭和22)年8月、運命を変える出来事が起きる。地元の運動会で審判長を務めていた岡部の下に突然、トラックが乗り付けられた。

 「市長が呼んでいます」

 降りて来た男たちは、有無を言わせず野良着姿の岡部を連れ去った。

 =文中、写真とも敬称略

 (田中耕、加茂川雅仁が担当します)

 連載第1~4部のあらすじ スポーツの聖地・平和台(福岡市)を創設した糸島市出身の岡部平太(1891~1966)。米国留学で多くのスポーツに挑み、科学トレーニング理論を習得したが、異種対抗試合を巡って恩師、嘉納治五郎と決別。旧満州に渡り、日中の懸け橋となるべく若者をコーチし、友好を図る。しかし、太平洋戦争はその思いを打ち砕いた。長男は特攻隊で失った。

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