【芸術とは何か?】 平野 啓一郎さん

西日本新聞 オピニオン面

◆自律性への信頼 起点に

 アメリカの哲学者ダントーが、『アートワールド』という論文を書いたのは、1964年のことである。執筆の動機は、ウォーホルの展覧会で、展示されていたハインツのケチャップなどを、鑑賞者が「こんなのは芸術じゃない!」と否定する様を見たからだという。

 ダントーはまず、「芸術とは何か?」という根本的な問いに対して、模倣理論に基づく再現芸術と、非-模倣的で、それ自体が新しい“現実”となるような芸術との二種類に大別する。前者の≪モナリザ≫や≪ひまわり≫が芸術だというのはわかるが、なぜケチャップが芸術なのか?

 ダントーは、それを芸術たらしめているのは「アートワールド」だと言うのである。

 「アートワールド」とは、字義通りの意味だが、その構成員については厳密に定義されていない。アーティスト、キュレーター、ギャラリスト、研究者、コレクター、一般美術愛好家、……といった人々を考えれば良いのだろう。そして、ハインツのケチャップなどを、芸術たらしめているのは、「アートワールド」に於(お)ける「芸術理論のある雰囲気」であり、「芸術の歴史についてのある知識」なのだと、微妙な話をしている。

 ダントーの議論は、「芸術とは何か?」を作品の「内在的な本性ないし本質」によって判断してきた伝統的な美学に、「ラディカルな相対主義」を突きつけた点で画期的だったとされる(西村清和『分析美学基本論文集』解説)。

    ◆   ◆ 

 私はこの話に、最初あまり興味を持てなかった。「雰囲気」というのは曖昧な言葉だが、「アートワールド」が、実作や議論を重ね、展示や売買を通じ、何が芸術かを決定している、というのは、今日、当たり前の話と思われるからである。他方、集合的にはそうであっても、個々の「アートワールド」の住人が、何によって、これは芸術だという判断を下しているかと言えば、結局、作品に現れた美だとか、批評性だとかの諸々(もろもろ)の実体的な要素であろう。

 しかし昨今、芸術に対して、政治権力や暴力を背景に、強引な「こんなのは芸術じゃない!」という批判がなされる有様(ありさま)を目にするにつけ、私はこの議論の社会的な意義を再認識した。ダントーの念頭にあったのは、20世紀にお馴染(なじ)みの“美しくなく、訳がわからない”作品のどこが芸術なのか、という問いだったが、今日では「国民感情を傷つける」などという主張が否定の根拠とされている。

    ◆   ◆ 

 私はしかし、「芸術とは何か?」の判断は、「アートワールド」が自律的に行っていくべきだと思う。それは今日では万人に開かれており、展覧会に足を運び、説得力のある議論を展開したり、作品を売買したり、企画展を成功させたりすれば、影響力を行使できる。だが、権力や暴力に訴えて自説をゴリ押しするなどというのは、論外である。

 国家が制度的に、芸術を内包するというのは、この「アートワールド」の自律性を信頼し、保護する、ということである。芸術だったら何をやってもいいのか?とも言われるが、現実には、今日の「アートワールド」は、寧(むし)ろ過剰なまでに社会性を意識している。じゃあ、これはどうなのか?という作品があれば、一旦(いったん)、それがどのような意味で評価されているのか、議論に耳を傾けるべきだろう。その上で、やはり納得できないと感じ、自説を述べるというのは、正しく「アートワールド」の住人の態度である。

 あいちトリエンナーレの『表現の不自由展・その後』が、個々の事例を通じて問うていたのは、実のところ、この「アートワールド」の自律性自体の問題だと感じた。

 【略歴】1975年、愛知県蒲郡市生まれ。2歳から福岡県立東筑高卒業まで北九州市で暮らす。京都大在学中の99年に「日蝕」で芥川賞。「ある男」で読売文学賞。「マチネの終わりに」は映画化され、公開中。本紙朝刊で「本心」連載中。

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