スポーツの「平和台」に 土地奪還

西日本新聞 ふくおか都市圏版

平和台を創った男 岡部平太伝 第5部(2)

 岡部平太を連れ去ったのは、福岡市の職員だった。市役所で出迎えた市長の三好弥六は「来年の国民体育大会を誘致したい」と明かした。準備委員長への就任を懇願された岡部は快諾し、すぐさま行動に移した。

 秘策があった。昭和天皇の弟で、スポーツ振興に尽くして「スポーツの宮様」と呼ばれていた秩父宮雍仁(やすひと)親王を動かすことだった。岡部は満州時代に「昭和天皇成婚記念事業」として日仏対抗陸上大会を開催し、知己を得ていた。

 「宮様の力を借りれば、話はまとまる」

 勇んで上京したものの、秩父宮の返事は予想外のものだった。「福岡には主会場がない。再来年にしなさい」。落胆して宿舎に戻ると、県と市の関係者が待ち構えていた。東京、静岡、北海道が立候補したという。岡部は熟考し、次の一手を考えた。

 「国体の監督官庁である文部省を味方につけるしかない」

 岡部の相談を受けた市長の三好は、福岡選出で社会党の参議院議員、松本治一郎を引っ張り出した。当時は、社会党の片山連立内閣で、松本は参議院副議長。文部大臣も社会党だった。松本とともに大臣と面談した。松本が「福岡の受け入れ態勢は十分だから」と見えを切ると、大臣は「それなら当然だ」と応じ、福岡開催の流れができた。

 しかし、実情は全く違った。最大の問題は、主会場となる競技場の建設地。岡部は市中心部の福岡城址にある陸軍歩兵第24連隊の跡地に目を付けていた。ただ、そこは連合国軍総司令部(GHQ)が接収。進駐軍の家族用住宅が建設されようとしており、土地の奪還はあり得ない話だった。

 岡部は諦めなかった。GHQ幹部と8回にわたって交渉。「もう戦争は終わった。ここをスポーツのピースヒルにしたい」と口説き続けた。

 「長男平一の鎮魂。そして、スポーツを通じた相互理解によって戦争を抑止したい」。この土地を「平和台」と命名した岡部の思いを、教え子で福岡教育大名誉教授だった厨(くりや)義弘は何度も聞かされていた。

 岡部の言葉に動かされたGHQは、1948(昭和23)年2月20日、ついに土地使用を認める。外務省外交史料館に残る資料には「協力援助を惜しまない」とGHQが確約したことが記されている。大会のわずか8カ月前だった。

 =文中、写真とも敬称略

 橘京平氏の講演会 小説「Peace Hill 天狗(てんぐ)と呼ばれた男 岡部平太物語」(幻冬舎)の著者、橘京平氏の講演会が12月6日午後2時、福岡市中央区赤坂の中央市民センター3階ホールで開かれる。入場無料で、事前申し込み不要。当日は小説(上下巻)の販売とサイン会もある。問い合わせは、中央区生涯学習推進課=092(718)1067。

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