われら前衛の徒 大分新世紀群の軌跡(6)「五月」 野外展 混沌の時代に礫

西日本新聞 文化面 藤原 賢吾

 大分が誇る日本画の大家は、まだ拙さもある若者たちの絵画を食い入るように見つめていた。同行した大分市長に促され、独特の字で丁寧に署名する。

 「福田平八郎」

 1952年のある暑い日のことだ。大家に似付かわしくないのは眼前の作品だけではない。絵が掛けられていたのは、繁華街にある若草公園のフェンスだった。美術サークル「新世紀群」は2度目となる同人展で、文字通り展示室を飛び出したのだ。

 東京大の学生だった磯崎新(88)は振り返る。

 <この老大家が、こんな暑い戸外の殺風景な会場のテーブルでのサインに、一本の線まで大事にかくことで示された芸術家の気概に、圧倒されるおもいをした>(ZINC WHITE 草創期の新世紀群)

 磯崎はこの時、自身最後と位置づける油彩画を出品している。タイトルは「五月」。「血のメーデー事件」と呼ばれた、その年の5月1日の騒乱に由来する。

 サンフランシスコ講和条約の発効で、日本の主権回復後初めて迎えたメーデー。会場の明治神宮外苑には、10万人を超える人たちが集ったという。その中に、磯崎もいた。

 集会が終わると、参加者は五つのコースに分かれてデモ行進に移った。磯崎は語る。「その中の一群の連中が皇居前広場を目指して行った」。やがて、デモ隊は警官隊と衝突する。投石や車への放火に警察は催涙ガスや発砲で応戦。デモ隊に死者が出て、1200人以上が逮捕された。

 「僕は騒動を知らずに帰ってしまっていた。ただ、何とかその状況を描きたいと思ったんです」。磯崎はリアリズムではだめだと直感した。「(ピカソの)ゲルニカをイメージした人体を描き、すぐに『五月』と名付けました」

 元メンバー雪野恭弘(83)は、もう1点抽象的な作品がこの時の野外展示に出されていたのを覚えている。「赤旗が斜めにはためく50号くらいの油絵でした」

 混沌(こんとん)とした時代。若者たちは誰しも何かを訴えようと足掻(あが)いていた。

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 新世紀群はその後、67年まで計11回の野外展を開く。彼らはなぜ、野外にこだわったのか。「群長」の木村成敏は記す。

 <絵画を正しい意味において国民のものとする為には画廊やデパートからもっと街のどまん中に追出して、いわゆる絵をアクセサリーとする階級のものから、更(さら)に生きることにきびしい毎日を送っている人達に見せると云う方向に向けねばならない>(機関誌「新世紀」)

 野外展は初回から話題となり、買い物かごを手にした女性や労働者など、1日の観客は2千人に迫ったという。

 第7回同人展では来場者にアンケートを行い、機関誌で結果を報告した。会期は55年10月1~4日。うち1日は台風で中止となり、3日間で4500人が訪れた。

 アンケートでは年齢や性別、職種の他、自然主義的写実作品や社会的テーマの作品といった好みの画風などを尋ね、<社会リアリズム絵画が、現代の原動力となっている層によって最も支持され、望まれている>と結論づけた。

 来場者もさまざまな感想を寄せた。

・我々(われわれ)の生活に直結した感じ、身近に作品を観(み)る喜びを得た(29歳男)

・肩がこらずに見られるだけ大いによい、継続はかれ(38歳教員)

・私どもには新しい絵はどうもわかりません(60歳男)

・バックの金網が気になった(22歳事務員)

・作品を選択せよあまりに下手なものがある(22歳銀行員)

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 メンバーは絵画やデッサンなどを自由に展示できた。野外展は、公募展に反発した新世紀群が新しい時代に向けて放った礫(つぶて)だった。

 雨が降れば公園東の建物に作品を避難させ、展示中はテントを張り、時にはするめを肴(さかな)に酒を酌み交わしながら交代で番をした。我(わ)が子のような作品を見てもらう晴れ舞台だったのだろう。成敏は胸を張る。

 <私達の美術運動と創作活動は今まで全く美術と切り離された人達(殆(ほと)んど90%の人達)と美術を結びつける大切なかけ橋になっている>(同)

 かように旺盛な活動を続ける新世紀群には、牽引(けんいん)する原動力となった男がいた。後に戦後前衛美術の台風の目となる彼は「まっさん」と呼ばれた。

 =敬称略

 (藤原賢吾)

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