「あの時のまま」感激する客も 企業城下町で愛されたラーメン

西日本新聞

ラーメン のれんのヒストリー 替え玉(1) 若竹食堂(熊本県水俣市) 

 木造の外観は昭和のたたずまい。年輪を刻んだ看板には「うどん」「カレー」の文字が躍る。熊本県水俣市にある「若竹食堂」。よくある郊外の大衆食堂の趣きだが、そこには人々を引きつけてやまないラーメンがあった。

 のれんをくぐると店内は地元客らしき人たちばかり。いわゆる食堂メニューが並ぶ中、多くがラーメンをすすっていた。「カレーはもう出してませんよ」。店主、竹田忍さん(75)はそう言って笑った。

 周りにならってラーメンを注文した。豚骨スープはすっきりながらうまみは十分。中太麺は軟めのゆで加減でスープと一体感がある。熊本ラーメンとは一線を画すが「揚げにんにくを入れてもおいしいですよ」と竹田さん。途中から熊本らしくにんにくを投入し、こくが増したスープを飲み進めると丼の内側に「明陽軒」という文字が現れた。

 「昔の店名ですよ」

 明陽軒は1966年、竹田さんの母、静子さん(故人)が核となって水俣の中心街で開業した。当時、父の力さん(故人)が印刷業を営み、その従業員が久留米のラーメン店で働いた経験があった。だからラーメンだという。竹田さんも店に入った。チッソの企業城下町のにぎわいもあって大当たりし、工場正門前に支店も出した。

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 ちょうどその頃、一人の若者が国鉄水俣駅に降り立っている。チッソが水俣病の原因となるメチル水銀を生成するアセトアルデヒドの製造を中止した68年のことだ。

 神戸市の会社経営、大谷国彦さん(74)はチッソの新入社員として独身寮に入寮。そこで先輩が出前を取ってくれたのが明陽軒だった。「世の中にこんなおいしいラーメンがあったのか」。関西出身の大谷さんにとって衝撃的な出合いとなった。

 賠償に煮えきらない会社に対する義憤もあり、大谷さんは約2年で退職してしまう。ただ、妻は水俣出身で帰省するたびに思い出の一杯を味わった。しかし「ある時、店がなくなっていたんです」。

 竹田さんによると、両親は76年に店の権利を売った。その後、経営者が交代して店自体は存続していたが、15年ほど前に完全に姿を消した。竹田さんが若竹食堂を始めたのは79年。「郊外でラーメンだけでは厳しい」と食堂メニューを増やした。それでも1番人気はラーメンで、今年開業40周年を迎えた。

 「『前身が明陽軒と知らなかった』という人は今も来ますよ」。元チッソ関係者だけでなく、里帰りした水俣出身の人たちもこの味を求めてやってくる。大谷さんも8年前に存在を知って駆けつけた。「あの時の味のままだった」と感激する。

 竹田さんは今、息子の峰征さん(34)と共に厨房(ちゅうぼう)に立っている。「懐かしく思ってくれるのはありがたい。できる限り続けたい」

 場所、屋号が変わっても記憶の中に残り続ける。そんな思い出の味を今日も作る。 (小川祥平)

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 2014~17年に連載した「ラーメン のれんのヒストリー」。人、歴史に焦点を当てた企画は好評を博し「ラーメン記者、九州をすする!」として出版されました。連載終了から2年半。書ききれなかった話、新たな物語がいい具合にゆで上がりました。題して「替え玉」始まります。

 =月1回掲載

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