戦後初めて日の丸掲揚 福岡国体

西日本新聞 ふくおか都市圏版

平和台を創った男 岡部平太伝 第5部(3)

 連合国軍総司令部(GHQ)から何とか土地を奪還した岡部平太。しかし、直後に再び難題が持ち上がった。サッカー場予定地(後の平和台野球場)に、大蔵省が福岡財務局を建設する計画を進めていたのだ。

 市長の三好弥六を問いただすと「ごり押しされ、どうしようもない」という。岡部はすぐさま上京し、国体の「生みの親」で日本体育協会理事長の清瀬三郎を連れ出して、大蔵省に向かった。担当局長に建設中止を直談判するためだった。

 しかし、待っても待っても局長は現れない。秘書課長が説明した。「ショウギをやっていますので、お待ちください」。岡部は激怒した。「将棋とは何だ!」。すると清瀬は笑っている。「将棋でなく省議だよ」

 この直接行動で事は動いた。「国体中止か財務局建設か。どちらを取るのか」と詰め寄る岡部に、局長は建設地の変更を確約した。

 後は時間との勝負だった。主会場の起工式は、1948(昭和23)年4月8日。岡部は陣頭指揮を執った。GHQからブルドーザー2台を借り、連日2500人を動員。ラグビー場は、福岡市のラガーマン200人が整地した。

 大会の中身にもこだわった。「敗戦で打ちひしがれている国民に希望を与えたい」と、自ら国体の歌や大会ロゴを作った。だが、まだ足りない。そこで相談したのが大会式典委員長の楢崎正雄。楢崎は国際大会でも活躍した中距離走の選手で、岡部を師と慕っていた。

 楢崎が考えたのは「日の丸の掲揚」だった。国体は五輪憲章に準じて開催され、五輪では参加国の国旗が掲げられるからだ。国旗掲揚を認めていなかったGHQと折衝し、大会の10日前に承認する電報が届いた。

 しかし、日の丸用に準備した大きな布は、すでに大会役員の腕章にしていた。慌てた岡部はつてをたどり、東京の製作所に依頼。布を3枚縫い合わせ、食紅を手作業で塗り重ねた日の丸が大会直前に完成した。

 こうして、ようやく福岡国体の準備は整った。

 「陸軍連隊、占領軍がいた土地が、スポーツを通じて平和を育む拠点に生まれ変わった」

 10月18日の完工式であいさつした岡部は、人目をはばからず号泣した。

 29日の開会式。君が代が流れる中、競技場のメインポールには、戦後初めて日の丸が翻った。

 =文中、写真とも敬称略

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