平野啓一郎 「本心」 連載第80回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

 しかし、僕は、彼女に対して抱いた一個の具体的な、不可解な感情を、そのまま愛の定義としたのだった。

 僕は彼女と、二人きりで会うことを望まず、肉体的に求め合うことを夢見ず、思いを告げることも、関係を持続することも、求めていなかった。ただ、彼女が学校を辞め、そのために自分が職員室の前で座り込んでいるという、それだけで十分だった。

 僕は彼女から、ただの一度として感謝されたことがなく、恐らく、僕の抗議活動も、知らないままだったに違いない。知ってもらおうともしなかった。

 僕にとっての愛は、このように定義されたものだった。従って、その後、僕には人を愛する機会が訪れなかった。

 夏休みに入ると、他の生徒と同様に、僕も登校するのを止(や)めた。補講にも顔を出さず、二学期に入っても、結局一度も学校へは行かないまま自主退学した。

 僕の人生は、ひょっとすると、今もまだ、あの高校二年の夏休みが続いているのかもしれない。それは、人が聞けば、魅力的な状態とも感じられようが。

 学校側は、僕の退学を当然のこととして受け止め、特に引き留められることもなかった。

 母が泣いたのを見たのは、あの時が初めてだった。--しかしあれは、何の涙だったのだろうか?

 僕は、母から家計については詳しく聞かされていなかったが、週末は引っ越し業者でアルバイトをしていたので、状況は察していた。それについては、学校からも黙許されていた。

 母は、どうしても僕を大学に進学させたがっていた。奨学金は必要だったが、とにかく、高校中退という経歴で、生きていくことなど不可能だと何度も諭された。しかし、大学を出たからといって、まともな職にありつけると、どうして信じられるのか、僕には不思議だった。

 ともかく、僕たちが生涯に稼ぎ出さなければならない所得は、寿命ごとに計算されている。知恵のある人間は、子供の頃からネットの動画や売買で、コツコツ、稼ぎ続けていて、最低限を確保すれば、次は資産家クラス入りを目指すことになる。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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