金栗四三と二人三脚で 世界制覇

西日本新聞 ふくおか都市圏版

平和台を創った男 岡部平太伝 第5部(4)

 福岡国体を成功させ、福岡県体育協会の理事長に就任した岡部平太は、次の行動に出た。1950(昭和25)年になり、佐賀市で開催された20キロロードレースを視察した際、再会した金栗四三(かなくりしそう)に対して「日本人が陸上で世界に勝つにはマラソンしかない。練習の機会をつくりましょう」と熱っぽく説いた。

 日本人初のオリンピックマラソン選手だった金栗も賛同。寄付を集めて「オリンピックマラソンに優勝する会」を結成した。コーチは岡部や金栗が務め、3月から合宿に入った。練習会場は、平和台陸上競技場。選手たちは米や毛布を持って集まった。

 米国留学で生理学を学んだ岡部は、マラソンを「肺と心臓で走る競技」と定義していた。そのため、心肺機能とスピードの両方が鍛えられるインターバル走や、起伏のあるコースを走るクロスカントリーを導入。疲労回復を図るため、選手たちにはカロリーの高い料理も食べさせた。選手のタイムが軒並みアップしたのを確認すると、金栗に進言した。

 「日本人の誇りを取り戻すには、米国の伝統ある大会を制するのが一番です」

 その舞台は、ボストンマラソン。戦後初めて日本人が挑む国際大会となった。51(同26)年春。監督は岡部が務め、広島出身で当時18歳の田中茂樹(88)=宇都宮市=ら4人を派遣した。

 しかし、選手はおびえきっていた。「負けたら捕虜にされる」と思った田中は、眠れなかったという。選手をリラックスさせようと考えた岡部は、フィギュアスケートの観戦を提案。田中だけが参加した。

 「女性が氷の上で滑ったり跳ねたりしていて、驚いた。美しさに見とれて、不安なんか消し飛んでいた」

 レース中も平常心を失わなかった田中は「後半勝負」という岡部の指示を守った。終盤の「心臓破りの丘」でスパート。2人を抜き、ゴールに飛び込んだ。戦後、日本人が初めて国際大会を制した瞬間だった。

 田中を抱きかかえた岡部は大声で泣いた。米国紙の一面を飾った「JAPAN勝利」の文字と、岡部の教えを田中は忘れない。「勝つ根拠を教えてくれた。そんな指導者は初めてだった」

 岡部と金栗は、その後も二人三脚で指導。国際大会で10年間に6度も優勝させ、日本マラソン界の礎を築く。

 =文中、写真とも敬称略

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