東海林太郎に父を見た 上別府 保慶

西日本新聞 オピニオン面 上別府 保慶

 忘れられぬ出会いは、1964年の東京五輪を7カ月後に控えた3月9日のことだった。福岡教育大の1年生、麻生進さんは、福岡市中央区渡辺通にあった「九州温泉センター」の前で足を止めた。

 ポスターが歌手の東海林(しょうじ)太郎さんが来ると告げている。麻生さんの母親が荷車を引きつつ口ずさんだ「赤城(あかぎ)の子守唄(こもりうた)」のスターだ。苦学生の麻生さんにとって入場料は高かったが、思い切って入った。座敷のステージに直立不動で歌うロイド眼鏡の男がいた。顔に年輪が刻まれていた。

 ショーの後、東海林さんに声を掛けた。戦前からのベテラン歌手にすれば、学生姿のファンは珍しかったろう。泊まっていた中洲の旅館に招かれて、話し込んだ。

 麻生さんに父・源吉さんの記憶はない。福岡県岡垣町出身の源吉さんはゴム会社に勤め、マレーシアに赴任した。妻のイチさんが麻生さんを身ごもった時、太平洋戦争が始まる気配を察し、イチさんを他の子と一緒に実家の佐賀県鹿島市へ戻した。そして開戦。源吉さんは現地で軍に徴用されたまま、消息を絶った。

 イチさんは、農作業の手伝いや行商で子供たちを食べさせ、戦後の混乱を生きた。麻生さんは高校を出てから大阪の薬問屋に奉公し、大学には同級生よりも4年遅れて入った。気後れから、同級生に身の上話はしなかった。

 そんな麻生さんの話を、東海林さんは歌と同じく生真面目に聞いた。彼には、両親と離れて育ち、愛に飢えた子供時代があった。祖父と孫ほど年の離れた2人に文通が始まった。東海林さんは旅先からも絵はがきを送り、くじけそうな時には励ましてくれた。

 麻生さんは教師を経て会社員になった。他界した東海林さんを「心の師」として、歌の道へ進んだのは定年後の64歳の時だ。懐メロ教室で歌唱を学び、中高年向けの全国コンテストで最終選考に残った。6年前に初のCD「夢列車」を出し、既に4枚になる。

 今、78歳。芸名は名前の進に爺(じい)をつけてもじった「シンジー」である。父を失った太平洋戦争の開戦日の12月8日には、自宅に近いライブハウスもも庵(福岡市東区箱崎)で30曲を熱唱する「昭和よか歌こころ歌」を催す。開演は午後2時だ。

 前売り2500円(要1ドリンク500円)。予約はもも庵=090(4350)8798。シンジー、張り切ってどうぞ! (特別編集委員)

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