平野啓一郎 「本心」 連載第82回 第五章 “死の一瞬前”
「人間はさ、やっぱり、ほとんどの他人とキスなんかしたくない動物なんだな。街歩いてて、前から来る人間で、年齢性別を問わずに、キスしてもいい人としたくない人、数えていったら、圧倒的に、したくない人の方が多いよ。よっぽど病的な性欲の人間以外は。」
「まァ、それはそうかもしれない。」
「だから、キスできる相手っていうのは、例外的な存在なんだよ。なぜかその相手に対してだけは、嫌悪感が解除される仕組みになってる。」
「……そうなのかな。」
「それで、オレは同性愛差別について、新しい認識を得たんだよ。」
「……。」
「ストレートの男が、パートナーの女の浮気を赦(ゆる)せないのは、間接キスの嫌悪感なんだな。オレの彼女が、どっかで浮気して帰ってくるだろう? それがわかると、オレはどんなに好きでも、もう彼女とはキスしたくないんだよ。だって、その唇には、どっかの知らない野郎のツバがついてるかもしれないんだから。気持ち悪いだろう? もちろん、口だけじゃないし。……だけど――いや、だからかな、オレは彼女が、どっかのかわいい女の子と浮気してきたって言うんだったら、赦せるんだよ。キスだって出来る。三人一緒にってベッドに誘われても、喜んで加わるね。だけど、どっかのオッサンを含めて三人でっていうのは、絶対にイヤなんだ。」
僕は頷(うなず)いてその話につきあっていたが、少しいつもと様子が違うことに気づいていた。何かあったのだろうか?
「要するに、同性愛者を『気持ち悪い』なんて言う人間は、頭の中で、同性愛者の体と過剰に一体化して、男同士でキスしたりするところを想像するからなんだよ。だから、そういう連中は、誰かがスゴい婆(ばあ)さんとつきあってるって聞いても、やっぱり『気持ち悪い』って言うよ。人の勝手だって、思えないんだよ。これはさ、AVを見てるとわかるんだ。性に関しては、人間は、簡単に他人をアバター化してしまう。オレはさ、中年のオッサンの下半身をじっと見つめてろなんて言われても、まあ、絶対にイヤだね。だけど、AVで女優と絡んでる時には、嬉々(きき)として凝視してるんだよ、それを。その関係性に入り込んで、その男優の体と一体化するから。」