平野啓一郎 「本心」 連載第83回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

 そこまで言うと、岸谷は、ビールを飲んで、僕の感心するような反応を待ったが、やはり、どことなく不安そうな表情だった。目が充血していて、かなり酔っているようにも見えた。

 何か、機を見計らって重要な話をしようとしている。――僕はそんな気配を感じたが、しかし、彼の調子っ外れな様子から、愛想笑いさえ満足に出来なかった。

 岸谷は、僕の戸惑いを看(み)て取ると、所在なげにまた缶ビールを呷(あお)って、腕で口を拭った。そして、唐突に、

「オレは、中国に行こうかと思うんだよ。もう、日本に見切りをつけて。」

 と言った。僕は驚いたが、

「そう、……それもいいかもしれないけど、アテは?」

 と尋ねた。

「ないこともない。言葉も、機械翻訳で何とかなるよ。」

「寂しくなるね。」

「お前も、いつまでも日本なんかにいても仕方ないだろう? お母さんも、もういなくなったんだし、早めに出た方がいいよ。」

 僕は彼を見つめたが、まるで夢の中で人と喋(しゃべ)っているかのようだった。奇妙なことを、奇妙と認識できないまま受け容(い)れてしまう、あの感覚。――

 それから彼は、「こんな時代に、こんな国に生まれてきた」ことの不幸を語り、政府の無能を口を極めて罵倒した。

「オレはもう、つくづくイヤになったね。もうイヤだ。吐き気がするね、こんな国。」

「何かあったの?」

「別に、……まァ、イヤな金持ちの客がいたっていう、いつもの話だよ。」

 僕は続きを待ったが、強いて聞き出そうとはしなかった。彼は、思い出すのも不快だと言わんばかりに、嘆息して話を逸(そ)らした。

「オレは最近、仮想現実の“暗殺ゲーム”にハマッてるんだよ。」

「……何、それ?」

「歴史上の実在の人物を、タイムマシンで暗殺しに行けるんだよ。計画を練って、武器を手に入れて、SPの警護をかいくぐってさ! 今みたいな世の中にした昔の政治家だとか、大企業の社長なんかを、もう大分、殺してる。」

「……。」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化され、11月1日に公開予定。

マチネの終わりにの公式サイト

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