【二足の靴 白秋ぶらり旅】みやま編(2) 第二の故郷は姉の懐

西日本新聞 もっと九州面 鶴丸 哲雄

 年を重ねるにつれ、人は故郷が恋しくなるのはどういう訳か。筆者も50を過ぎてから明治生まれの祖母と過ごした幼い日々をよく思い出す。北原白秋生家・記念館(福岡県柳川市)の大橋鉄雄館長(67)と行く「二足の靴 白秋ぶらり旅」。今回の目的地は2度目の福岡県みやま市(旧瀬高町)にした。白秋の異母姉、加代(1882~1975)が93年近い人生を全うした地である。柳川の生家を失った白秋にとって、故郷の筑後で暮らす姉はどんな存在だったのか。

 白秋館から加代の家だった「菊美人酒造」を目指し、車で国道443号を東へ。助手席の大橋さんが「この道は、『この道』のあの道ですよ」と珍妙な解説を始めた。

 この道はいつか来た道、
 ああ、そうだよ、
 お母さまと馬車で行ったよ

 幼い白秋が母に連れられ、母の実家があった熊本県南関町へと馬車に揺られた道である。「白秋の隣には、3歳上の加代も仲良く座っていたことでしょう」(大橋さん)

 加代は白秋の父長太郎の先妻の子。白秋の母しけは、血のつながらない加代を、白秋と共に習字の塾に通わせるなど手厚く育てた。「加代は柳川弁で言う、まさに『ゴンシャン』(良家の娘)でした」と大橋さん。嫁入り前には柳川の習わしで巡礼の旅へ。朱塗りの酒だるの前で加代に鈴を手渡した白秋は、その様子を後年、こう記した。

 なんといふ美しい処女の順礼であつたらう。わたしと三つちがひの姉、その姉の美しい名は近在にかくれもなかつた

 半分血のつながっていない美貌の姉に、少年期の白秋はどう接しただろう。恋慕や反発、羞恥がない交ぜになった微妙な心理が、「思ひ出」に代表される白秋作品の肥やしになったのは間違いない。

 菊美人酒造に着く。加代のひ孫の江崎俊介社長(57)が出迎えてくれた。江崎さんの案内で江戸末期の建築の邸内へ。まず「菊美人」と書かれた額が目に留まる。流麗そのものの字体。「白秋さんは本当にいい字を書かれますよね」。熊本市から駆けつけてくれた加代の孫の楠田昭子さん(75)がほほえむ。

 加代が江崎家に嫁いだのは1900年。当時の婚礼か親族顔合わせの際の献立表が、119年の時を経て保管されていた。参列者に白秋(隆吉)の名もある。料理の品数は約20。九州に名がとどろく酒造家同士の贅(ぜい)を尽くした婚儀が目に浮かぶ。

 加代は嫁入りの記憶を、幼い江崎さんを膝に乗せて明るく語ったそうだ。「江崎家が銀行もやっとったから、金庫に金がうなっとるかと嫁に来たら、なーもなかった」

 気丈な女性だったのがよく伝わる。10人の子をなし、夫の死後は大黒柱として酒造業と家内を切り盛りした。

 一方、白秋の実家は大火が元で破産。一家は柳川を捨てて借金も踏み倒し、上京してしまう。「残されたお加代ばあさんは、さぞ寂しかったと思います」(楠田さん)

 「棄郷者」となった白秋が恐る恐る故郷に戻ったのはその20年後。待っていたのは、人々の大歓待だった。その後、白秋は江崎家によく滞在するように。41年には、加代は四斗だるの清酒を二つも清水山の頂上へ男衆に運ばせ、白秋を囲む宴を開いた。白秋は江崎家のため自作の歌を数十点したためている。「この歌もいいですよ」。江崎さんが1枚の掛け軸を指さした。

 新春(にいはる)とけさたてまつる豊御酒(とよみき)のとよとよとありてまたたのたのと

 このリズム感こそ白秋の真骨頂。豊かで楽しく喜びに満ち、軽やかに筆を運ぶ白秋の穏やかな顔まで浮かぶ。故郷を捨てた白秋が再び見つけた故郷は、最愛の姉、加代の懐であった。そう実感した。

(鶴丸哲雄)

 菊美人酒造 福岡県みやま市瀬高町上庄。創業は江戸時代の1735年。白秋が命名した「菊美人」を主要銘柄としており、ラベルの文字も白秋の直筆を使っている。来年2月22日(土)、23日(日)には恒例の酒蔵開きがあり、白秋直筆の詩歌や本文中に出てくる献立表も展示する。電話は0944(62)3001。

 清水山 みやま市東部の市民の憩いの山で、山腹に清水寺、五百羅漢、三重塔などの名所がある。雪舟の設計と伝えられる清水寺本坊庭園には、白秋作のきじ車の歌碑もある。

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