純粋なスポーツのため 生涯現役

西日本新聞 ふくおか都市圏版 加茂川 雅仁 田中 耕

平和台を創った男 岡部平太伝 第5部(7)

 72歳になった岡部平太は1963(昭和38)年1月、スポーツ発展への功績が認められ、朝日新聞社から「朝日賞」を授与された。文化や科学への「傑出した業績」と「多大な貢献」を顕彰する内容だった。

 授賞式のスピーチでは、96歳までグラウンドに立ち続けた米国の師、スタッグに対する敬愛の念を述べた。そして「これからもスポーツのために」と言いかけて、「純粋なスポーツのために働く」と言い直した。

 岡部がいかにアマチュアの「フェアプレー精神」を愛したかを示すエピソードがある。54(昭和29)年、東京・蔵前国技館で行われたプロレスラー力道山と柔道家木村政彦との試合。岡部は観客席から「木村、やめろ!」と大声で叫んだ。

 アメリカに留学した岡部は、柔道対プロレスの実現可能性を研究。しかし、金銭が絡む興業の世界では、スポーツとしてのフェアなルールは成立しないことを確信していたからだ。

 「ルールの成立しない異種格闘技戦は、もはやスポーツではない」

 プロレスとの対決に前向きだった日本の師、嘉納治五郎の下を去ったのも、同じ理由だった。予想通り、木村は力道山の反則パンチを受け、失神した。

 朝日賞受賞時、岡部は翌年の東京五輪に向け、陸上強化コーチに就任していた。アマチュアの祭典、五輪の開催は嘉納の悲願だった。岡部は「私は一生涯グラウンドにおるつもりです」と決意を語った。

 盟友の金栗四三は、こんな祝辞を述べた。「70を越した年で新しい研究をして、マラソン界の進歩発達に貢献した人は世界にいない。その実績で、来年のオリンピックで勝つために一層の努力ご精進ご研究をお願いしたい」

 しかし、半年後の8月、岡部は九州産業大の教壇で倒れた。脳出血だった。生涯現役を貫いた反骨のコーチは、翌年の東京五輪をその目で見ることなく、最期の言葉を残して旅立った。「運動場に立つだけでもいいから、一度行きたい」

 66(昭和41)年11月7日死去、享年75歳。

 福岡市の平和台陸上競技場。正面入り口の横には、岡部の胸像が立つ。92(平成4)年春、教え子たちが寄付を募って建立したものだ。今も、グラウンドで汗を流す人々を見守っている。 =文中、写真とも敬称略

 =おわり

 (田中耕、加茂川雅仁が担当しました)

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