平野啓一郎 「本心」 連載第85回 第五章 “死の一瞬前”

西日本新聞 文化面

 もう一歩踏み込んで、話を聞きたかったが、僕は、それを躊躇(ちゅうちょ)した。

 それでも、彼のことを、自分が真に重要な問題について、語り合うべき友人だと認識していることを、どうしても伝えたくなった。しかもそれは、この会話の中ですべきだという、一種の焦燥があった。

「一つ訊(き)きたいことがあるんだけど。」

 と岸谷を見つめた。彼は、ぎこちなく微笑して、

「何?」

 と軽く顎を上げた。

「いつか、自分の人生の中で、『もう十分』って、心から思える日が来ると思う?」

「何だよ、それ?」

「つまり、死んでもいいと思えるくらい、『もう十分生きた』って、自分が思うかどうかだよ。」

「そりゃ、辛(つら)い人生だったら、『もう十分』とも言いたくなるだろうなあ。」

「幸福感から、そう言う心境って、想像できる?」

「サァ、……ま、金持ち連中は、そういうことを思うんだろうし、公言してる人もいるよ。自分はもう、いつ死んでもいいなんてさ。どうぞ、と思うけど、絶対、死なないね。それでもやっぱり、長生きしようとする。幸福なんだから。」

「だけど、どんなに美味(おい)しいものだって、ずっとは食べ続けられないだろう?」

 僕は、母が僕に語ったその言葉を、母自身のように――母のアバターになったかのように――口にした。

「その喩(たと)えはおかしいな。金持ち連中は、牛みたいに胃が幾つもあって、物凄(ものすご)い勢いで幸福を消化して、排泄(はいせつ)し続けてるよ。幸福を喰(く)ったあとに出るクソを、散々、見てるだろう、オレたちは? 連中は、永遠に空腹だよ。絶対に、本気では『もう十分』なんて言わないね。」

「金持ちじゃない人がそう言ったなら? 家族を愛してるとか、そういう事情で。」

「オレにそういうことを訊くのか? オレにわかるはずがないだろう、それが。」

「ごめん、……ただ、僕にとって重要な問題なんだよ。」

 岸谷は、物悲しげな、憮然(ぶぜん)とした表情をしていたが、僕をじっと見ていたあとで、今にも何かを告白しそうな目で言った。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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