アイドル編<443>青春のH・B・S

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 鉢巻き、ペンライト、ユニホーム。福岡市の中島英樹(56)にとってこれは応援のための「三種の神器」といえた。約30年前にそろえたものだ。今も手元に残る長い白鉢巻きには「H・B・S」と「隊長」の赤文字が刺しゅうされている。H・B・Sは「ヒロミ・ボディガード・スペシャル」の略で、隊長は親衛隊長を表している。

 中島は高校2年生のときに歌手、岩崎宏美の親衛隊長になった。ファンクラブの九州支部が発足し、その中から親衛隊も生まれた。 「人一倍、ヒロリン(岩崎宏美)を応援していましたから隊長に、との話がありました」

 中島は小学生のときに見ていたテレビ番組「スター誕生」で最優秀賞に輝いた岩崎を「歌がうまい」と思った。中学3年生のとき、岩崎のシングル「思秋期」(1977年)のキャンペーンが福岡ビルの屋上であった。色紙付きのレコードを買った後は握手会だ。中島が「テレビでデビューから見ています」と言うと、岩崎は「ありがとう」と答えた。この瞬間から中島にとって岩崎はアイドル=偶像になった。

   ×    × 

 H・B・Sのメンバーは約20人。中島は「他のファンより偉いわけではなく、ファンの規範、手本となるように応援することでした」と語る。 

 ライブでの親衛隊の見せどころはコールだ。「ロマンス」(75年)を例にとってみよう。<ひろみチャン>の部分がコールだ。

 あなたお願いよ<ひろみチャン>席を立たないで<ひろみチャン>息がかかるほど<ひろみチャン>…。 「コールがばらばらだとかっこ悪いし、歌い手がとまどうので、公園で何度も練習しました」 

 バラードのときはコールではなく、ペンライトを振った。応援スタイルは全国統一で、東京の親衛隊からコールの入れ場所を書き込んだ歌詞カードが届いた。応援だけではない。博多どんたくでゲスト出演した岩崎が、舞台から移動するときには親衛隊が輪で囲み、ガードをしたりもした。 

 「遠征応援も含めすべてボランティア。ヒロリンと話をする機会もほとんどなかった。それでも思いを共有する仲間たちとの活動は充実した青春そのものでした」 

 H・B・Sの活動は岩崎のライブが少なくなった80年代後半ごろに休止した。中島は「正式な解散式はしていない。まだ、私は親衛隊です」と笑った。

  =敬称略 

  (田代俊一郎)

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