われら前衛の徒 大分新世紀群の軌跡(7)まっさん オルガナイザー 「反抗」を力に

西日本新聞 文化面 藤原 賢吾

 蒸気機関車は黒煙を吐き久大線を東に急ぐ。車窓から夕日に輝く由布岳が見えた。1955年4月4日。画家・池田龍雄(91)は帰省先の伊万里を発(た)ち、8時間かけて大分駅に立つ。体格のいい青年が出迎えた。

 「まっさん」こと吉村益信(1932~2011)だった。大分の地を踏んだのは、美術サークル「新世紀群」に招かれ、画材店「キムラヤ」での座談会に出るためである。

 翌5日、吉村はオートバイの後ろに池田を乗せ、桜彩る別府の街を案内した。高崎山でサルを見て別府湾の砂浜に寝転ぶ。ちぎれ雲がいくつか浮かぶうららかな空を、米軍機編隊が爆音を轟(とどろ)かせ切り裂いた。

 「戦争の記憶がまだ残っていました」

 そう回想する池田はその時、キムラヤで個展を開催し、農民の絵などを出品していた。「座談会には十数人集まり、絵画の社会性について話したんです」

 この年、左右に分裂していた社会党が統一された。自由党と民主党の保守合同で生まれた自民党との55年体制が確立する。54年から始まった神武景気は、56年の経済白書に「もはや戦後ではない」と謳(うた)わせた。日本は大きな転換点を迎えていた。

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 吉村は大分で薬局を営む裕福な家庭に生まれた。敗戦が色濃くなった小学6年の頃。学校では毎朝、はるか東の宮城を遥拝(ようはい)し、教師にこう誓わされた。

 <ハイ! 僕は予科練に入り、特攻隊を志願して死ニマス>(吉村益信の実験展図録)

 戦後は一転、民主教育となる。ラグビーやサッカー、水泳などのスポーツに打ち込んだ。現在の大分上野丘高校に進むと、進学を重視した授業に反発した。

 <思えば私のエカキのはじまりは、やはり一言で反抗であった><小学校からの決死的人生観が、眼前、エソラノゴトク碧空(へきくう)に砕け散り、平坦な安穏の夢になったときもやはり激しく反抗する何か極端なものがあった>(ZINC WHITE 草創期の新世紀群)

 17歳。河北倫明が著した青木繁の画集を見た。叙情的な「海の幸」などに強く心を揺さぶられ、美術にのめり込む。ほどなく昼は学校の美術室へ、夜はキムラヤのアトリエへ通うようになった。

 高校の1学年先輩に、直木賞作家となる赤瀬川隼と磯崎新(88)がいた。磯崎が3年の時、吉村が美術部で描いた絵に唸(うな)った。

 「うまいやつが入ってきた」

 磯崎は独特の描き方にも瞠目(どうもく)する。「別府のラクテンチの裏に志高湖という湖があり、よくピクニックに行きました」。吉村は湖までの急な上り坂を駆け上がると、荒い呼吸のままキャンバスに向かい一気に絵を描いた。「まさにアクションペインティング。こいつは変わっている。絵描きになると思いました」

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 鷹揚(おうよう)で人を引き付け、親分肌で面倒見がいい。吉村を知る人は口をそろえる。行動力抜群で、高校では自治会長を務め、運動会の仮装大会では2年連続1等になる。まさにオルガナイザー。後にさまざまな美術グループを結成するのもうなずける。

 51年に現在の武蔵野美術大に入学。新世紀群の後輩たちが大学進学などで上京するようになると、酒や食事を振る舞った。

 <彼は新世紀群の顔だった。スポーツをやり万能選手だった益(まっ)さんの体はたくましく、引き締(しま)っていた。けれども私の彼に対するイメージは丸々とした感じである。空気が一杯詰(つま)ったゴムまりのように、体中にエネルギーが満ち満ちてはち切れそうだった>(文芸誌「航跡」より佐藤至良)

 57年、新宿にアトリエを建設する。当時はバラックの茶色い建物が多かった中、アトリエの白い外観は目を引き、「ホワイトハウス」と呼ばれた。この素案を手掛けたのが磯崎だった。ホワイトハウスは、磯崎の「最初の作品」とも位置付けられる。

 磯崎は、共に参列した赤瀬川隼の結婚式会場のトイレで吉村から依頼されたという。2人で用を足していた時、横から吉村が切り出した。

 「『遺産分けが入ったので何とかやってくれないか』。こう頼まれたんです」。建築界の第一人者となった磯崎は今、懐かしそうに振り返る。

 ホワイトハウスは若い芸術家の根城となった。やがて吉村を中心に戦後日本美術史に大きな足跡を残す「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(ネオ・ダダ)」が結成される。

 ここに、隼の弟で芥川賞作家となる原平もいた。彼が大分時代に新世紀群の門を叩(たた)いたのは、まだ中学生の時。道連れは、同級生の雪野恭弘(83)だった。

 =敬称略

 (藤原賢吾)

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