われら前衛の徒 大分新世紀群の軌跡(9)ハプニング ネオ・ダダ 風のように駆け抜け

西日本新聞 文化面 藤原 賢吾

 浅黒い肌の小柄なその男は、エキゾチックな顔立ちも相まって、唯一無二のオーラを纏(まと)っていた。

 風倉匠(しょう)(1936~2007)。大分市の美術サークル「新世紀群」が生んだ希代の「ハプナー」は、風のように捉えづらい男でもあった。

 戸籍上の本名は橋本正一。ところが、親交を結んだ多くの人が幼い頃からの通称「正巳」を本名だと思っていた。新世紀群機関誌6号にも、新入会員として通称で紹介されている。

 「風倉匠」の誕生秘話も語り草だ。本人は美術批評誌「機關(きかん)」での菊畑茂久馬との対談で、「凡倉惰作(ぼんくらださく)」名で大分県美術協会展に出品した際、主催者側に「凡」を「風」だと勘違いされたと証言している。ただ、新世紀群機関誌12号(1956年11月)には「凡倉怠作」で文章を、同13号(57年2月)には「風倉省作」で詩を寄せている。風倉は56年10月の県美展に初入選しており、この時に「ハプニング」が起きたと考えられる。「匠」は後に「ネオ・ダダ」メンバー篠原有司男(うしお)の母が提案した。

 彼には右手人さし指がなかった。敗戦直後の少年時代。カニを捕りに行った近所の川に不発弾があった。

 <戦争は終わったし、この爆弾もひょっとしたら有効期限が切れたんじゃなかろうか>(機關)

 信管を軽く叩(たた)いた。爆発してしまった。

 戦後、長兄戦死の報(しら)せが届く。そして母と次兄と姉がチフスに罹(かか)り、姉は亡くなる。食べるものもない。

 <戦争が終わってからのほうが死と隣り合わせっていう感じが強かった>(評論・インタビュー集「時計の振子、風倉匠」)

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 いまでこそアートの主流の一つとなっているパフォーマンスは、かつてハプニングと呼ばれた。1957年。大分の教育会館で風倉が行ったそれは、日本美術の嚆矢(こうし)とも位置付けられている。地元の青年団や劇団が演劇や舞踊を披露する文化祭での一幕だった。

 <彼は舞台の真中(まんなか)に椅子を持ち出して腰掛けた。それから一寸(ちょっと)間をおいて、いきなり後ろに倒れた。ほぼ満員の観客はドキッとしたが、風倉さんは起き上がって腰掛け、また倒れた。そうした行為を際限なく繰り返すと、客席に恐怖に近い戦りつが走った。今に人間も椅子もばらばらになるのではないか。まったく手加減しない倒れかたである>(文芸誌「航跡」より佐藤至良)

 この行為は、たまりかねた先輩に「ほどほどにせんか。こげな馬鹿(ばか)事!」と蹴飛ばされて終わる。

 風倉は戦後のフラストレーション、結核療養中に乱読した文学全集などの影響で芸術に目覚めた。ただ、いつまでたっても晴れない心境が、直接行動に向かわせたのだろう。それから伝説的なパフォーマンスの数々を残していく。

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 60年代が幕を開けるころ。池田龍雄(91)は新宿の地下道で、体格のいい男とばったり再会する。吉村益信だった。彼はこう言った。

 「もうすぐ面白いことを始めますよ」

 吉村や赤瀬川原平、そして風倉という新世紀群メンバー3人に加え、モヒカン刈りの篠原や荒川修作など後に名を成す美術家が集まり、ネオ・ダダは結成された。

 60年4月の第1回展は銀座画廊で開かれた。雑然とした展示室で繰り広げられた騒動を、池田は今も忘れられない。

 「篠原が誰かと激しく取っ組み合ったんです。ケンカのように見えたが、パフォーマンスだったのでしょう」

 吉村は展覧会のパンフレットを全身に貼り付け、ミイラのような姿で銀座の街を練り歩いた。彼らは暴力的な表現を繰り広げ、わずか半年、3度のグループ展で主な活動を終える。疾風のように美術界を駆け抜け、戦後美術史に大きな爪痕を残した。

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 吉村は62年に渡米し、赤瀬川は「ハイレッド・センター」などのグループや芥川賞まで受ける文筆活動で注目される。一方、風倉は飄々(ひょうひょう)と、まるで己の存在を掻(か)き消すかのように独自の道を歩んだ。世界的ビデオアーティストのナムジュン・パイクは風倉について、「知る人ぞ知る、一度出会ったら忘れようにも忘れられない人間」と語り、こう評した。

 「世界でもっとも無名な有名人」(時計の振子、風倉匠)

 初期メンバーの多くが東京に拠点を移し、新世紀群は一時、勢いを弱める。しかし、大分に残った人たちは変わらず描き続けた。その中には、差別と闘い自らの道を切り開いた女性たちがいた。 =敬称略
 (藤原賢吾)

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