平野啓一郎 「本心」 連載第87回 第六章 嵐のあとさき

西日本新聞 文化面

「実は、岸谷さんは、ベビーシッターを頼まれていた家で、窃盗を働いたんじゃないかという疑惑を持たれてます。宝石や貴金属の類いがなくなっていると、依頼者が訴えています。何か、聞いてませんか?」

 僕は顔を顰(しか)めつつ、

「何も聞いてません。」

 と即答した。

「本当に聞いてませんか?」

「聞いてませんけど、僕にそんなことを尋ねるのは、お門違いじゃないですか? 岸谷さん本人は何と言ってるんですか?」

「本人は否定してますね。」

「じゃあ、そうなんでしょう? そんなの、岸谷さんのゴーグルの映像記録を見れば、簡単に証明されることじゃないですか。依頼者だって見てたはずだし、何のために勤務中の映像をレコーダーに残してるんです?」

「映像を確認した限りでは問題はなかったんですよ。ただ、金品がなくなっているらしくて、こんなこと言うのも何ですけど、よそ見しながら、ゴーグルのカメラに映らないようにして、さっと盗むことくらい、簡単でしょう?」

 僕は、憤然として体が打ち震えるのを感じたが、声を荒らげたりはしなかった。

「だったら、――会社として彼を守ってあげるべきじゃないですか? とにかく、やってないと言ってるんですし。」

「石川さんも、よくご存じですけど、岸谷さんは個人事業主として弊社と契約してもらってますから、違法行為があれば、当然、契約解除になります。」

「それはわかってます。」

「先方は、警察に届けを出すと言ってますし、それでハッキリする話でしょうけど、噂(うわさ)が広まって弊社の信用問題になれば、結局、石川さんも含めて、他の契約者の皆さんの仕事にも響くことですから。」

 その言葉に醜悪に露(あら)わになっている、僕と岸谷とを引き裂こうとする意図に、僕は過敏な痛みを覚えた。チョコレートのクリームを絞って、クッキーの上に書いた脅し文句を見ているような感じがした。

 しかし、僕を当惑させたのは、他方で、この担当者が語って聞かせた、岸谷の窃盗現場の光景が、嫌になるほどありありと、既に脳裡(のうり)に芽吹いてしまっていたことだった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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