われら前衛の徒 大分新世紀群の軌跡(10)開拓者 果てぬ理不尽 女性たちは闘った

西日本新聞 文化面 藤原 賢吾

 1944年4月29日未明。大分駅は憲兵が睨(にら)みを利かせ近寄れない。汽車は駅を発(た)ち闇夜を縫い門司へと向かう。飯田(はんだ)幸子(84)は当時8歳。近くの踏切から母やきょうだいと叫んだ。

 「お父さーん! お父さーん!」

 長い列車の最後尾。中国戦線に送られる軍服姿の父が、たった一人で立っていた。風のように過ぎ去りながら、家族に向けて白い物を投げた。母に宛てた手紙だった。別れを悲しみ、銃後の家族を心から案じていた。

 召集された父は30代前半。都城の連隊に入る際、こう言い残した。

 「こんな年寄りにまで召集令状が届くなんて。この戦争は負けだな」

 戦争が終わり、父は引き揚げの途中で亡くなる。国からの報(しら)せは「戦病死」。しばらくして訪ねてきた戦友が打ち明けた。本当の死因は、餓死だったという。

 食べることさえ難しい混乱期だった。母は悲しむ暇もないほど必死で働いた。家業は荒物雑貨店。行商もして、5人の子どもを育て上げた。

 長女の飯田は大分商業高校で学んだ。ただ、世間は冷たかった。当時、大分商卒業生は金融機関に就職するのが一般的だった。しかし、母子家庭を理由に断られた。

 「保証人がいないということなんでしょうね。いろいろと苦労しました」

 戦争と差別を憎んだ。後年、「戦前から平和を訴えていた」と共産党に入り、73年に大分市初の女性市議として当選。それから合わせて5期務め、学童保育や保育園の整備、公害問題などに尽力した。

 子どもの頃から絵を愛した。高校を出た54年。大分商で経済を教えていた佐藤至良に誘われ、美術サークル「新世紀群」に入った。

 活動はまだ旺盛だった。デッサン会、野外展。合評会はざっくばらんだった。絵に真剣な仲間と会うのが楽しみで、欠かさず通った。左翼運動の闘士だった「群長」の木村成敏は、よく冗談を言って笑わせた。共産党に入ったのは彼の影響もあった。

 56年。オープンしたばかりの石橋文化センター(福岡県久留米市)に行った。ピカソを見に翌年も行った。皆でわいわい言いながら。会場に入って最初に目についた作品は白い画面の女性だった。はっとするほどのインパクトがあった。

 「新世紀群は青春の一ページでした」

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 60年頃には大分でもデッサン会が開ける公共施設が整いだした。画材店「キムラヤ」のアトリエは倉庫となり、会場は町村会館などに移った。50年代は磯崎新や吉村益信、風倉匠(しょう)などが度々参加したが、草創期メンバーの相次ぐ上京もあり、60年代以降は野外展の回数は激減。前衛性より絵画サークルとしての純粋性が前面に出るようになった。毎年のように開かれた同人展は95年が最後とみられ、息長く続いた新世紀群は2000年頃に自然消滅したという。

 キムラヤも時代の波に洗われた。画材店は1990年頃に併設していた運動具店から独立し移転する。だが、ライバル店が力を付け2010年頃に閉店。運動具店も量販店の進出に押され11年に店舗を閉じ、現在はネット販売や学校などへの外商に力を注ぐ。

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 佐藤京子(72)は大分大に入学した1965年に新世紀群に入った。デッサン会場は移り、開催日も週2回から1回に減っていた。ただ、毎回20人ほど集まり熱心に描く姿は変わらなかった。彼女は会計を担当し運営を支えた。

 闘ったのは女性差別だった。

 小学6年の時。運動会の応援団に応募したら、こう言われた。

 「女の子はなれないの」

 それはおかしいよ! 声を上げ母校初の女子応援団員になった。

 中学2年の時。勉強の重要性を説いていた担任がこう言った。

 「まあ、女の子はどうせ嫁さんになるからな」

 学生時代。美術作品展示のアルバイトに行くと、男女で給料に差があった。

 なんで? なんで?

 講師を経て高校の美術教師になった。就職したばかりの頃、こうも言われた。

 「女子職員はお茶くみするのが当たり前だ」

 飲み会でのお酌も当たり前。教師になり、最初に取り組んだのがお茶くみ廃止運動だった。

 「一生描き続けよう」

 学生時代に約束し合った友人の多くが、結婚などを機に絵筆を置いた。彼を支えるため、夫の親に反対されたから。理由はさまざまだったが、女性が描き続けるのは難しかった。

 大学卒業後、すぐに女性だけの美術グループ「りぶの会」を立ち上げた。当時盛り上がっていたウーマンリブ運動に引っかけた。結婚しても、子どもができても描き続ける。新世紀群のようなデッサン会やグループ展を開いた。30年以上活動を続け、どのメンバーも個展が開けるほどに成長し、役目を終えた。女性が描き続けることは当たり前の時代になった。

 教師をしながら複数のグループを運営し、子どもも2人育てた。意地と根性で5足も6足もわらじを履いた。彼女はいま、日展へも入選を重ねる。

 「大好きな絵を真剣に描くという純粋な姿勢を、新世紀群から学んだんです」

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 そのサークルは、メンバーの人生に彩りも喜びも刺激も与えた。ある者は世界に羽ばたき、ある者は特異な表現で名を刻み、また、ある者は道なき道を切り拓(ひら)いた。戦争の傷、混沌(こんとん)の時代、変わりゆく日本を生き抜く道標であった。

 彼らの名は「新世紀群」。

 紛(まが)うことなく、前衛の徒であった。 =敬称略

 (藤原賢吾)

 =おわり

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