平野啓一郎 「本心」 連載第89回 第六章 嵐のあとさき

西日本新聞 文化面

 僕は自分が、自分自身のアバターになったような奇妙な感覚に見舞われた。それが、「動くな」と指示しているのか、それとも、「動け」と指示しているのに従えないのかはわからなかった。

 連絡をして、自分は一体、何を話すのだろうか? 岸谷が口にした「行動するしかないんだよ」という言葉を思い出した。すると、僕の怯懦(きょうだ)は、既に寧(むし)ろ、彼の方から連絡があり、昨晩は語られなかったその内容を打ち明けられることを怖(おそ)れた。

 僕は岸谷を見捨てることを懸念しているのではなかった。彼こそは実は、僕の人生に再来した、「英雄的な少年」なんじゃないかと不安になったのだった。
 
     *
 
 三好との面会の場所は、彼女が母と時々行っていたという居酒屋を指定された。

 母が勤務していた職場の旅館から一駅だった。駅近くの大きな雑居ビルの四階で、大半の席が半個室になっている作りだった。

 エレベーターの中で、一人だった僕は、先日、仕事先で「臭い」と言われたことを思い出して、ポロシャツの袖に鼻を押し当てた。洗剤の香りが、まだ微(かす)かに残っていた。反対の肩のにおいも嗅いだが、同様だった。

 僕はほっとしつつ、あの時、彼女を殺さなかったのはなぜだろうかと考えて、その唐突さに息を吞(の)んだ。

 そんなはずはなかった。僕は決して、あの場で殺意など抱かなかったし、第一、クレームが届いたのは、その後の話だった。しかし、この世界には、あそこで激昂(げきこう)して彼女を殺害する人生もあるはずだった僕は、そうではなかったのだけれど。

 なぜだろうか?

 僕は、さしたる疑問もなく、これまで法に触れることをして来なかったが、その理由は、恐らく母がいて、母に愛されていたからだった。母を悲しませたくなかったし、母を独りにもさせたくなかった。

 しかし、今はどうだろう? 母のいる世界から、母のいない世界へと足を踏み入れ、しばらくここで生きてみたあと、確かに僕は、なぜこの新しい世界の法律を守らねばならないのかが、一旦(いったん)、わからなくなったのだった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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