平野啓一郎 「本心」 連載第90回 第六章 嵐のあとさき

西日本新聞 文化面

 今、僕が犯罪を犯しても、誰も僕のために悲しむ人はいない。

 <母>はどうなのだろう? 月三百円で契約しているニュースの情報から、「石川朔也(さくや)」という犯罪者の名前と顔写真を認識したなら、どんな反応を示すようにプログラムされているのだろうか? 僕と向かい合ったら、悲しんで涙を流すのだろうか?

「……イラッシャイマセ。ゴ予約ノ、オ客様デショウカ?」

 入口に設置された受付機は、何度か僕にそう問いかけていたらしかった。ようやく我に返ると、僕はそのボタンの操作をした。

 一体、誰のことを考えていたのだろうか? 僕自身のことか? それとも、岸谷のことか?

 

 案内表示に従って予約席に向かい、のれんを潜(くぐ)ると、狭い四人がけの座席に、三好が座って待っていた。あの南国のプールサイドで会った、猫の姿しか知らなかったが、なぜかすぐに彼女だとわかった。あの猫が、お伽話(とぎばなし)のように、そのまま人間の姿に変身したような感じがした。

「三好さん、ですか?」

 と、一応、確認すると、

「はい、そうです。朔也君?」

 と笑顔で席を勧められた。

 僕は、襷掛(たすきが)けのバッグを脇に置きながら背もたれの低い木製の椅子に腰掛けた。

 彼女は、濃い茶色のノースリーヴのニットを着ていた。肩に触れるくらいの髪が、内にカールしかけた途中で、さっぱりと切りそろえられている。それが、僕を見上げる仕草(しぐさ)のあとを追って、小走りの数歩のように揺れた。

 ほっそりとした顎と、高い鼻梁(びりょう)が、少し面長の顔の中で秀でていた。目が大きく、瞳を支える下瞼(したまぶた)の線には、どことなく臆病な優しさが仄(ほの)めいていた。

 僕は、これまでの人生の中で、彼女ほど容姿に恵まれた女性と、面と向かって二人きりで話をしたことがなかった。――この「恵まれた」という認識が、誤解であったことは、ほどなくわかったが、そのために、僕は彼女の美しさへの、だらしないほどの憧憬(しょうけい)を、密(ひそ)かに守り続ける気になった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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