平野啓一郎 「本心」 連載第91回 第六章 嵐のあとさき

西日本新聞 文化面

 何も言わずに黙っている僕に、彼女は、

「何か飲みます?」

 と言ってタブレットのメニューを差し出した。僕はビールを選び、そのあとは、二人でサラダや刺身(さしみ)、豚の角煮などを注文した。ボタンを押す彼女の人差し指の爪は、光沢のあるベージュに塗られていた。

「朔也(さくや)君のお母さんも、揚げ出し豆腐、頼んでたよ。」

「ああ、……本当ですか。」

「うん。」

 自宅で、特に母が、よく揚げ出し豆腐を食べていたわけではなかったが、だからこそ、外では食指を動かされたのか。同じものを注文したという単純な事実が、僕は何となく嬉(うれ)しかった。母の一部が、僕の中に引き継がれて、生きているような感じがしたのだった。

 母に話すことが出来たなら、きっと、「あら、そう? 親子ねえ、やっぱり。」と笑ったことだろう。

「似てるね、顔も。――目が似てる。」

 僕は、何か言いたかったが、ぎこちなく笑っただけだった。目は、僕が、母の顔の中でも一番好きだった部分だった。

 壁のランプが、着信音とともに点灯し、小窓が開いた。僕は、レールで運ばれてきた二人分のビールとつきだしの枝豆を取って、彼女に渡した。

「ありがとう。」

「ジョッキ、ビールで濡(ぬ)れてます。」

「うん、大丈夫。どうしても、これで運ばれて来ると、ちょっと零(こぼ)れるね。」

「止まる時に、多分。」

 僕たちは、既にネットでアバター越しにやりとりを交わしていたはずだったが、「はじめまして。」と乾杯した。

 三好は、二口ほどをスッと飲むと、リップクリームしか塗っていない風の唇を巻き込むようにして泡を舐(な)めた。そして、二三度、小さく弾(はじ)けるように口を開いて、「うーん、美味(おい)しい。」と独り言のように言った。

 僕は、久しぶりにアルコールを口にしたが、霜がつくほど冷えたグラスのビールは、食道から胃に至るまで、清涼な余韻をか細く残した。それが絶えて消える前に、もう一口飲むと、やはり「美味しい」と感じた。

 薄暗い照明で、店内には、最近の流行の音楽が流れていた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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