平野啓一郎 「本心」 連載第92回 第六章 嵐のあとさき

西日本新聞 文化面

 客はそこそこに入っているらしく、隣の部屋からは、時折、男性の大きな声が聞こえてきたが、話の中身まではわからなかった。

 母がこういう店に足を運んで、彼女と二人きりで話をしていた姿を、僕はうまく思い描くことが出来なかった。ただ、三好と交わした母のメールの口調は、なるほど、ここにはまったく似つかわしかった。

 食事は、次々と運ばれてきて、あっという間に小さなテーブルを満たした。

 三好は、明瞭な口調だったが、少し身を乗り出さないと聞こえないくらいの声で喋(しゃべ)る人だった。そのせいで、僕は自然と、彼女の言葉に集中することになった。

 三好と母とは、僕が思っていた以上に、頻繁に食事を共にしていたらしい。必ずしも、お酒を飲むわけでなく、ファストフードで簡単に済ませることもあったようだが、母が僕にそのことを、一度も語らなかったのは、不思議であり、少し寂しくもあった。なぜだろう? 僕への気づかいだろうか? 僕はふと、母が、岸谷と食事にでも行ったらどうかと勧めていたことを思い出した。

 三好には、訊(き)きたいことがたくさんあったが、僕はまず、母がなぜ、僕の高校時代の話をしたのかを尋ねた。

「母は、僕が高校を辞めたことを嘆いてましたか?」

「ううん。嘆くとかって感じじゃなかったけど。」

「どうして母は、そんなこと、話したんですか?」

 三好は、僕に豆腐サラダを取り分けてくれ、「はい。」と差し出した。考えているらしい曖昧な眸(ひとみ)が、弱い磁力で引き寄せられたように、僕の目に止まった。それをまた、瞬(まばた)きで引き離すと、彼女は、自分の分のサラダを取って、箸を手にしたまま躊躇(ためら)った。

 口を閉ざしたまま、小さな嘆息を一つ漏らすと、沈黙に区切りをつけて顔を上げた。

「朔也(さくや)君は、売春してた女の子のために退学になったんだよね?」

 僕は、数秒、間を置いてから、

「――ためにっていうか、そういうことがあって、……最後はでも、自主退学です。夏休み明けに、学校に行けなくなって。」

 と頷(うなず)いた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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