平野啓一郎 「本心」 連載第95回 第六章 嵐のあとさき

西日本新聞 文化面

 母は、海外で生活をしたことなどなかったが、若い頃には、仕事で英語を使う機会も多かったので、外国人のアルバイトとのやりとりは、翻訳機器なしで行っていたらしい。三好はそれを、尊敬していたと言った。

 それから、彼女は僕の仕事について尋ねた。

「大変でしょう? 人の指示通りに動くのって。」

「まァ、……でも、色んな経験も出来ますし。」

 僕は、最近の仕事の中でも、特に忘れられない若松さんの依頼の話をした。

「へえー、……そんなこと、あるのね? じゃあ、感謝されてるね、人から。」

 僕は、顎で使われているような大半の仕事を彼女には話さなかった。

「もう少し収入になれば、もっと、いいんですけど。」

 誤魔化(ごまか)すように、そう言うと、彼女は強く共感した様子で言った。

「お金、欲しいよねぇ、ほんと。……貧乏って、何が嫌かって、四六時中、お金のことばっかり考えてないといけないでしょう? お金持ちより、よっぽどそう。働いてても、買い物してても、こんなふうにごはん食べてても。お金持ちは、好きだからお金のことを考えてるんだろうけど、わたしなんて、お金なんか、全然好きじゃないのに。大嫌いなものについて考えることで、一生の大半の時間が過ぎていくって、悲しくない? <ライフプラン>の減算時計を見つめる度に思う。――わたし、一度で良いから、頭の中から、完全にお金のことを追い払って生活してみたいの。どんなにスッキリするかなって。スーパーで、値札見ないで買い物したい。賞味期限切れギリギリの安売りを必死で探すんじゃなくて。きっと、全然違う人間になれると思う。」

「それは、……僕もそう思います。」

「ね? 絶対そう。夢物語だけど、でも、この世界には、そういう人たちもたくさんいるんだから。不公平よね。……」

 三好は、それから、グラスの中の氷を揺すって、残り少なのレモンサワーに少し口をつけた。あの少女も、どこかで今、こんなふうに人生の不遇を託(かこ)ち、誰かとその辛(つら)さを分かち合っているのだろうか。

「仮想空間の方が、生きやすいですか?」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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