博多港のシンボルよみがえる 「那の津往還」文字鮮明に

西日本新聞 ふくおか都市圏版 小林 稔子

引き揚げの記念モニュメント

 福岡市博多区の博多港のシンボルで、終戦後の中国東北部や朝鮮半島などからの引き揚げについての記念モニュメント「那の津往還」がよみがえった。刻まれた文字が経年劣化などにより一部消えていたため、福岡市が文字全てに新しく墨を入れ直すなどした。

 1996年に制作されたモニュメントは一部塗装がはげ、台座に刻まれている制作者の故豊福知徳氏の言葉や、そばの石碑に刻まれた当時の桑原敬一福岡市長の言葉が一部消えかかっていた。以前から、引き揚げ者らでつくる市民団体「引揚げ港・博多を考える集い」が要望しており、市が本年度予算に盛り込み実施した。

 墨入れは11月27日に始まり、4日に完了。新しく生まれ変わったモニュメントについて、「引揚げ港・博多を考える集い」の堀田広治事務局長(82)は「きれいになった」と笑顔を見せるものの、「塗装はいつ修繕されるかわからない」と話している。

反戦へ決意新た

 「足が悪いからなかなか見に行けんけど、(那の津往還が)きれいになって良かったですね」。福岡市中央区の松井善弘さん(93)は、17歳で生まれ故郷の博多から旧満州(中国東北部)の阜新へ渡り、19歳で博多港に引き揚げた。引き揚げ船から見た故郷の風景は今も忘れられない。

 阜新では炭鉱で1年間働いた後、1945年の春に現地の大学に入学。しかし、旧ソ連軍の侵攻によりすぐに学校生活は一変した。鉛筆の代わりにスコップとつるはしを持ち、街を守るため、対戦車用の穴を掘る毎日だった。

 関東軍から「爆薬を抱いて戦車の下に身を投げて破壊せよ」と命令を受け、友人たちと「立派に死んで靖国で会おう」と夜を徹して語り合っていた直後、終戦を迎えた。

 そこからは「この世の地獄を見た」。頭を丸坊主にして男装した女性を連れ去る旧ソ連兵、路上にある遺体の数々、親も家もなくしうつろな目でぼうぜんと道ばたに立ち尽くす幼子。食べるものさえままならない自分にはどうすることもできなかった。

 翌秋、帰国のめどがたち葫蘆島(ころとう)の収容所で引き揚げ船を待った。6畳一間に30人が収容されたが入りきらず、男性は路上で過ごした。いつ乗船できるかわからないまま2カ月が過ぎたころ、港に引き揚げ船「信濃丸」が現れた。「これで帰ることができる」。船上でたなびく日の丸の旗を見て涙した。

 松井さんの部屋には、手記を読んで記憶を継承した孫が贈ってくれた「信濃丸」のプラモデルが飾ってある。「犠牲になるのはいつも女性や子ども。戦争はどんな理由があってもしたらいかん」。「信濃丸」をそっと触りながら、力を込めた。(小林稔子)

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