釜山の住宅街 対馬藩役人の墓 戦時の建築資材に地元住職が保管

西日本新聞 国際面 前田 絵

誠信交隣「子孫探し慰霊祭を」 朝鮮王朝が外交使節「朝鮮通信使」を日本に派遣するなど朝鮮半島との交流が盛んだった江戸時代、日朝間の交易や外交に携わった対馬藩の役人のものとみられる墓石が韓国釜山市の住宅街で見つかった。墓石を保管する寺の関係者は「子孫を探して慰霊祭を行い、両国に平和と交流をもたらした時代に思いを巡らせたい」と話している。

 「私の寺に日本人の墓石があり、子孫を探したいので力を借りたい」

 釜山市西区にある観龍寺(クァンヨンサ)の天上(チョンサン)住職(44)から依頼を受け、現地を訪れた。墓石は高さ約60センチ、幅約25センチ、奥行き約20センチ。正面に「謙應恂虚居士」、右側面に「俗名 住永次右衛門」、左側面に「文政五壬午年正月初三日(1822年1月3日)」と記してある。

 墓石があったのは、日本統治時代(1910~45年)の日本人共同墓地跡にできた同市西区峨媚洞(アミドン)にある住宅街。50年に始まった朝鮮戦争の避難民などが、放置された墓石を建築資材に使って家を建てた地域として知られる。

 この地域に近い観龍寺の境内でも階段に石碑が使われていたため、天上住職が石碑を取り外して供養したところ、信徒から「自宅周辺にも石碑がある」と聞いた。2月に信徒宅を訪れた際、隣の住宅との間にある石垣に形が整った石を発見。引き抜いてみると、文字が鮮明に残っていたため、寺に持ち帰って調査に着手。韓日交流団体などの協力を得て、住永氏の情報を集めた。

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 住永氏はどんな人物だったのか。天上住職は名古屋大大学院の酒井雅代博士研究員(日朝関係史)の論文から、1817~18年に朝鮮語通訳者の最上位「大通詞」と同等の格式が認められた「大通詞格町代官」という役職に「住永治右衛門」という人物がいたことを確認した。

 酒井氏によると、住永家は対馬で日朝交易に携わる特権商人の家柄。一族は子どもの頃から朝鮮語を学び、家業を継いだり、対馬藩の役人になったりしたという。町代官は貿易を担当する町人出身者の役職で「語学が堪能だったので、人手が足りない時には通訳もしたのだろう」と推測する。

 さらに当時の日朝交易に詳しい光州女子大の鄭成一(チョンソンイル)教授の協力も得て、住永氏の実像に迫った。鄭氏によると、江戸時代に対馬藩が日朝交易の拠点として現在の釜山市に置いた草梁(チョリャン)倭館の記録「対馬宗家文書」の館守日記にも「住永治右衛門」が登場する。記録によれば住永氏は1822年1月4日に病死し、伏兵山に運ばれたという。

 墓石は「住永次右衛門」、館守日記は「住永治右衛門」と漢字が1文字異なり、死亡日も1822年1月3日と4日でずれているが、鄭氏は「同一人物と考えていい」と話す。

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 民間研究団体「釜山草梁倭館研究会」によると、日本人墓地は当時、伏兵山にあったが、その後、峨媚洞に移転。住永氏の墓もその際に移設されたのではないかという。同会の姜錫煥(カンソクファン)会長は「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」という対馬藩の朝鮮外交の理念「誠信交隣」に触れ「墓石の発見は韓日間の『誠信交隣』を改めて強調しているようだ。専門家のより詳細な研究に期待したい」と語る。

 子孫の手がかりを求めて長崎県対馬市役所に問い合わせたが、市内に住永姓の住民はおらず「姓を頼りに子孫を探すのは無理だろう」との回答だった。

 「住永治右衛門は朝鮮と日本を愛した外交官だった。現在の韓日関係は難しい状況だが、墓石の人物を明らかにする努力が韓日の友好増進につながると確信している」。天上住職は墓石を大切に保管し、子孫を探し続けるつもりだ。 (釜山・前田絵)

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