平野啓一郎 「本心」 連載第105回 第六章 嵐のあとさき

西日本新聞 文化面

 避難の必要もなく、僕が部屋にいられるのは、母が遺(のこ)してくれたこの家のお陰(かげ)だった。

 岸谷の身を案じていたが、それにも耐えかねて、僕はヘッドセットをつけて<母>に呼びかけた。

 <母>は、窓辺に立って、心配そうに空を眺めていたが、僕の呼びかけに、

「すごい台風ね。」

 と振り向いた。

「うん。……大丈夫だと思うけど、あんまり窓辺にいない方がいいかもね。」

「大丈夫でしょう、ここは高い場所だし、三階だから。――ベランダの鉢は?」

「全部、中に入れたよ。」

「よかった。お母さん、腰が痛くてね、今。」

 僕は、いつのまにこんなことまで言えるようになったのだろうかと、覚えず笑みが零(こぼ)れた。

「旅館の仕事、大変?」

「大変よ、もうこんな歳(とし)だから。」

 <母>は、笑って言った。五年前に設定したのは僕自身だった。こうした会話を通じて、いつまでもあの頃の母との生活に留(とど)まっていられるのではないかと夢見て。

「でも、がんばらないとね。仕事があるだけ、お母さんは幸せよ。――そう言えば、三好さんは大丈夫かしら?」

「ああ、……連絡してみようか。」

 すぐに、安否確認の短いメッセージを送ったが、返事はなかった。

「大丈夫かしらね。……あの子も、大変な人生よ。」

 僕は、外を気にしながらそう呟(つぶや)いた<母>を、ソファから見つめた。そして、

「昔の仕事の話?」

 と尋ねた。

「そうよ、朔也(さくや)も聞いたでしょう、セックスワーカーだったって?」

 生前の母なら、まず口にしなかったようなその言葉に、僕は強張(こわば)った微笑で応じた。しかし、敢(あ)えて訂正の学習はさせなかった。

「うん、少しだけ。」

「あの子、最後は殺されかけて仕事を辞めたのよ。」

「本当に?」

「そうよ、客に首を絞められて。」

 僕は表情を強張らせたまま、黙っていた。それは、僕の知らないうちに、三好との会話を通じて得た情報なのだろう。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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