国史跡「勝尾城 筑紫氏遺跡」 鳥栖市の山城 戦国時代の面影訪ねて

西日本新聞 佐賀版 荒木 達也

 佐賀県鳥栖市北西部の城山(じょうやま)(標高501メートル)一帯に国史跡「勝尾城(かつのおじょう)筑紫氏遺跡」が広がっている。戦国時代後期の約90年間、鳥栖地方を治めた筑紫氏。1586年、薩摩・島津氏に敗れ、87年に筑後(福岡県)に移った。その後、新たな城主が現れなかったため、遺跡は戦国時代の面影を色濃く残している。頂上の勝尾城跡に比べ、麓にある支城の葛籠(つづら)城跡は手軽に歴史散策ができると聞き、ボランティアガイド「ふるさと元気塾」の代表、弥永敏雄さん(70)とメンバーの中山悟さん(80)に案内してもらった。

 散策の出発点は四阿屋(あずまや)神社駐車場だ。案内看板を前に、弥永さんが「1989年に遺跡が確認され、95年から10年間の調査を経て2006年1月に国の史跡に指定されました。勝尾城と五つの支城で構成され、面積は230ヘクタールです」と説明してくれた。「広さなら国の史跡で十指に入ります」と同行してくれた市教育委員会生涯学習課文化財係の島孝寿さん(49)が言葉をつなぐ。記録に残っていない城もあるらしい。

 駐車場を出て葛籠城跡が残る小山に入る。土と石の緩やかな坂、鳥の鳴き声がしきりに聞こえる。駐車場から歩いて十数分、1本目の空堀に着いた。本城の南に位置する葛籠城は、防衛の最前線だった。葛籠城に2本ある空堀は島津対策で急きょ掘られた。長さ700メートル幅5メートル、深さは5メートル以上。「空堀と石垣をわずか半年ほどで作りました。空堀は1人1日で1立方メートル掘ったようです」と弥永さんは語る。

 もう1本の空堀は底を歩く。400年以上の年月で土が積もったものの、3~4メートルの深さがあり、見上げると「ここに落ちたら簡単にはい上がれそうにないな」と感じる。島津軍2万人超に対し筑紫氏は3千人以下。中には非戦闘員もいる。筑紫氏は全員が城山に逃げ込んだらしい。

 空堀が20メートルほど切れている場所があった。「城の入り口の可能性が高い」と島さん。道があったようだが詳しくはまだ分からない。「守りの城だから入り口なんか作るはずがない」「いや、敵をおびき寄せるために作ったんだ」など議論の的になるという。

 「山城ファンには『城をどう攻めるか』『敵からどう守るか』を考えることが楽しいという人が多い」と島さんは笑みを浮かべた。

 空堀から少し歩くと、主郭下に石垣があった。熊本城などと違い、数十センチの自然石を高さ0・5~1・2メートル積み上げている。残っているのは長さ16メートル。「石垣と(標高線に平行に掘る)横堀を多用するのは筑紫氏の城作りの特徴」と島さん。中山さんは「下から見上げた敵に石垣は威圧感を与えたのではないか」と400年前に思いをはせた。

 頂上の主郭は東西30メートル南北50メートル。城主は、筑紫氏の重臣だった。大きな建物の跡などは見つかっていない。居住地ではなく、有事の際の詰め所のようなものだったと考えられている。この主郭からは、勝尾城跡を望むことができる。今でこそ山を覆う木々は当時生えておらず、石垣など城の堂々とした姿が見えたらしい。

 その後は、家臣団屋敷跡などを通り、四阿屋神社駐車場に戻った。屋敷跡からは、中国製の碗(わん)や皿などが見つかっている。筑紫氏は今の福岡県那珂川市にも拠点があり、肥前と筑前、筑後の国境に勢力を誇った武士だと考えられている。

 標高126メートルの葛籠城主郭まで駐車場からの高低差は約40メートル。ゆっくり歩いても2時間ほどの散策コースだ。島さんは「12~3月が下草が少なく見学に向いている」と語る。年齢を問わず、戦国時代の攻防に思いを巡らせるのにはぴったりの遺跡だと思った。

 ●葛籠城跡は随時、勝尾城跡は春に見学会 ふるさと元気塾

 地域の歴史遺産を多くの人に触れてもらおうと、ボランティアガイド「ふるさと元気塾」は「勝尾城筑紫氏遺跡」が国の史跡に選ばれた2006年に鳥栖市などの有志によって発足した。メンバー約20人が毎月1回勉強会を開いている。筑紫氏に縁がある場所などへの視察も行っている。新たなメンバーも募集中だ。

 同市教育員会が年に2回実施する同遺跡見学会の案内役を務めるのが主な活動だ。4月の見学会は勝尾城跡を5時間ほどで巡り、11月は葛籠城跡を2時間ほどで回る。また、葛籠城跡は随時、無料ガイドを引き受けている。原則2週間前までに、市教委を通じて申し込む。

 「石垣や空堀、家臣団屋敷跡などがほぼ当時の姿で残るいる。戦国時代の気分が味わえます」と代表の弥永敏雄さん(70)は見学を呼びかけている。同市教委生涯学習課=0942(85)3695。

 (荒木達也)

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