平野啓一郎 「本心」 連載第107回 第六章 嵐のあとさき

西日本新聞 文化面

 愚かだが素朴で、美貌であり、言い知れず不憫(ふびん)で、藤原が影響を受けたという、モーパッサンの短篇(たんぺん)に出てくるような女性だった。

 人を介して彼と出会い、偶然を装って再会し、デートを重ねる。彼が恋愛感情を催して、のめり込んでいく様を遠くから隠しカメラで撮影し、最後に種明かしをする、という悪趣味な内容だ。

 事態は、筋書き通りに進んだ。とぼけた芸風とは裏腹の大人(おとな)しい、ナイーヴな男の内面は描写されない。関係の進展は、ありきたりだったが、女は次第に、欺(だま)していることに罪悪感を抱くようになる。それを察したスタッフの一人は、彼女にさりげなく、こう耳打ちしていた。
「内緒だけど、あっちも“ドッキリ”だって、気づいちゃったみたい。でも、仕事だから、最後まで素知らぬ顔でやり通して。」

 これが事実なのかどうか、小説では最後まで明かされない。女は、少し気が楽になり、また少しシラケ、共犯的な感興を催し、互いの演技を楽しんだ。ノッている、とスタッフのウケも良かった。

 彼からの連絡は頻繁になり、周囲にも「好きな人が出来た」と打ち明けるようになった。そのすべてがマネージャーの協力で覗(のぞ)き見られ、笑われるための材料となった。そして、いよいよ、自らの思いを彼女に告げようかというデートの直前、彼は全く無関係のテレビの旅番組で、フランスのビアリッツという高級保養地を訪れ、車に轢(ひ)かれて死んでしまうのだった。
 
 彼はその日、ロケの合間に、海岸沿いのプランス・ド・ガル通りを一人で散歩していた。彼方(かなた)のサーファーが、敷き詰められた波の煌(きら)めきの上に転々と散っている美しい海の写真を撮り、彼女にメッセージを送って、帰国後のデートの確認をした。絵文字をふんだんに使い、これまでよりも踏み込んで、「早く会いたい。」と率直に書いた。

 そこで、突然、闖入(ちんにゅう)してきた芸人仲間にすべてを明かされ、呆然(ぼうぜん)とした彼は、次の瞬間、床に崩れ落ち、頭を抱えて転げ回るはずだった。

 藤原は、この前後のバスク地方の海辺の風景を、殊に念入りに、美しく描写している。まるで唐突に、主題が、“自然と人間”といったところに飛躍してしまったかのように。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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