平野啓一郎 「本心」 連載第108回 第六章 嵐のあとさき

西日本新聞 文化面

 晴れた日で、歩道の右手は浜辺もなくすぐに海で、低いコンクリートの堤防の下には、荒い潮が打ち寄せていた。

 それから、少し歩いたところで、唐突に大きな波が打ち寄せてきたのだった。それが彼の足許(あしもと)の岸壁にぶつかり、数メートルも飛沫(しぶき)を上げた。そのままずぶ濡(ぬ)れになれば、また一つ、笑いのネタが出来たことだろうが、残念ながらその姿は、“ドッキリ番組”のカメラには収められていなかった。記録として残ったのは、すぐ脇を通り抜けようとしていた車の車載カメラだった。

 サーフボードを積んだ車は、大海原を右手に細い、片側一車線のプランス・ド・ガル通りへの坂道を下り、城のような建物を越えて、左に向かう急カーヴを走っていた。減速し、一瞬視界が塞(ふさ)がれ、再び開いて、恍惚(こうこつ)とするほど晴れ渡った青空とそれを反映した海、彼方(かなた)に連なる小高い丘とコンドミニアムが遠望される。

 そして、歩道を歩く一人のアジア系らしい男性の後ろ姿が見える。

「こんなに穏やかで、美しい日常の中に、死は何喰(なにく)わぬ顔で身を潜め、待ち伏せをしているのだった。

 その青年は、見蕩(みと)れたように眩(まぶ)しい海を眺めていた。そして、ケータイを弄(いじ)りながら歩き始めた。死は、まずその背中に隙を見つけたように、静かに取り憑(つ)いた。車は、なぜそこに的があるのか、まだ理解できない。」

 彼の姿が、右脇で大きくなってゆく。次の瞬間に起きることを、読者は既に予告されていた。唐突に「巨大な龍(りゅう)の氷像のような波濤(はとう)」が、彼に襲いかかってくる。

「死は、そう、波と車と予(あらかじ)め結託していたのだった。」

 その単純な罠(わな)にかかった彼は、ただ何かに驚いたのだった。

 顔を上げ、「わっ!」と、反射的に車道に飛び出した。

 波は実際、一帯を水浸しにするほど大きかった。轢(ひ)かれる間際、彼は一瞬、車を振り返りかけた。しかし、その表情は、ほとんど“ドッキリ番組”に引っかけられたかのような笑顔だった。

「恐怖の感情は、間に合わなかったらしかった。」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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