九州・沖縄から世界つなぐ 聖火とホストタウン、熱い思い

西日本新聞 佐々木 直樹 諏訪部 真

 九州にも「五輪・パラリンピック」はやってくる。本番を前に各地域で海外選手たちの事前合宿の受け入れや、自治体単位で出場国と交流を深める「ホストタウン」の取り組みが進む。そして春には聖火ランナーが56年ぶりに各地を駆け巡る。平和、復興、多様性-。社会を取り巻くさまざまな課題を、スポーツの祭典がつなぐ新たな縁を契機に前に進めたい。そんな強い思いで選手や聖火リレーを待ち構える人たちを訪ね歩いた。

 ■全身で感じた「誇り」  1964聖火の国内第1走者 沖縄・宮城勇さん

 重たそうな見た目と裏腹に、つばに「TOKYO 1964」と刻まれた聖火トーチは拍子抜けするほど軽かった。燃料を詰めても600グラムほど。だが、持ち主の宮城勇さん(77)=沖縄県浦添市=の手には数値以上の重みの記憶が宿る。「責任感も重なって、ずっしりとした手応えがありましたね」

 ギリシャで採火した聖火が12の国と地域を中継して沖縄・那覇空港に到着したのは開会式を約1カ月後に控えた9月7日のこと。琉球大で教員を目指していた22歳の宮城さんは沖縄での第1走者、つまり国内の聖火リレーの第1走者を務めた。

 オレンジ色の炎。青空に勢いよく立ち上る白煙。沿道で歓喜にわく観衆。全身で誇りを感じながら駆けた10分間は今も鮮明に脳裏に刻まれている。

 中でもスタート地点での体験は強烈だった。右手でトーチを掲げた瞬間、集まった万余の観衆の拍手と歓声が空気を揺らし、「万歳」の唱和が広がった。この日の最高気温は32・5度。暑いはずが極度の緊張と興奮で体が震えた。

 沖縄は太平洋戦争末期、国内最大の地上戦で、住民約9万4千人を含む日米約20万人が犠牲になった。敗戦から19年。五輪の象徴で「平和の使者」である聖火リレーを迎えたことが、沖縄の人々を高揚させた。激戦地となった沖縄本島南部の沿道には、遺影を抱きしめた人がランナーに手を合わせたという。

 「平和の象徴として、命の叫びとして、未来を照らす道標として聖火を迎えたのではないかと思います」

 当時の沖縄は米占領下にあった。車は右側通行、買い物にはドルが使われ、隣県の鹿児島へ行くにもパスポートが必要だった。米軍は決められた日以外の日の丸の掲揚を禁じていたが、リレー期間中は黙認。沖縄では祖国復帰運動が盛んになっていた時期でもあった。「聖火リレーが本土復帰への大きな足がかりの一つになったんじゃないでしょうか」。本土復帰を果たしたのは東京五輪から8年後の72年だった。

 前回大会は戦後からの復興の途にあり、多くの国民が明日の未来を夢見た。今年、再び聖火ランナーが全国を駆ける。「スポーツ界だけでなく、新たな社会を築いていく道標となるような大会にしてほしいと、そう思いますね」

 声をかき消すように、頭の上を米軍のヘリが通り過ぎていった。 (佐々木直樹)

   ※    ※

 1964年の聖火リレーは沖縄を出発した後、鹿児島から熊本-長崎-佐賀-福岡をたどるコースと、宮崎-大分を経て愛媛に向かうコースに分かれた。今年の聖火リレーは4月24日(大分)から5月13日(福岡)まで九州・沖縄を駆ける。

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